おっとどっこい生きている
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 えみりは怪訝そうな顔をしている。
「いいの? 切っちゃって」
「いいの!」
 こっちはそれどころじゃないんだから。――その時、私はお父さんにお詫びしようと考えていたことをすっかり忘れていた。
「あ、月曜は十時に空港だって。タクシーで来るから迎えはいらないって」
「それだけの為に電話してきたの? お父さん」
「らしいわ」
「それにしちゃずいぶん長話だったみたいだけど」
 私はジト目でえみりを見遣る。
「だって、駿ちゃんのお父さん、話上手なんだもの。ところで駿ちゃんは? 雄也は?」
「雄也さんはコンビニ。兄貴は――」
 私はかいつまんでそれまでのことをえみりに話した。
「そっか。『ダンケ』でそんなことが――」
 えみりは溜息を吐いた。
「悪かったわ。心配だったけど、つい話に夢中になって……」
 さっきは心配してるって感じじゃなかったけど――ツッコむのはやめにした。えみりは真剣な顔をしている。
「その男、最低ね。由香里ちゃんだっけ? その娘、最低男に捕まったってわけね」
 えみりは最低を二回も言った。私も頷きたいところだけど。
「雄也は真面目で良かった」
 あなた達のどこが真面目よ――と言いたいとこころだけど、雄也もえみりも根は真面目で純だ。今時の不良のかっこしててもね。それに、今のえみりは落ち着いた茶色の髪だし。
「ところでリョウはまだ帰ってこないのかしら」
「まだ学校にいるのかな? 今はまだ帰ってきてないのね?」
「フクが寂しがらないといいけど」
 フクはリョウの部屋にいる――はず。
「みんな夜遊びばっかりしててどうしようもないわね」
「私達のは夜遊びではないわよ」
「わかってるわよ。冗談よ冗談。それにもアタシも昔はね……」
 えみりは続けようとして、やめた。
「それよりみどり。お腹空いてない? 残ったピザあっためるわよ」
「うん。お願い」
 私は携帯を取り出してテーブルの上に置いた。もし万一緊急連絡が入ったらちゃんと準備していないと困るものね。
 待つこと数分――。
 チ―ン、という電子レンジ独特の音が聴こえた。えみりが運んできてくれた。
「はい。みどり」
「ありがとう! わぁ、熱々だ!」
 何が情けないって、冷めたピザほど情けないものはない。昔、とある政治家のことを『冷めたピザ』って表現した人がいたけど――。
「すっかり準備万端ね」
 と、えみり。
 兄貴は私に連絡してくるかどうかわからない。私に対して水臭いところがあるからなぁ、兄貴は。
 私だって役に立つとこ見せたい。何か手伝いたい。
 でも、私にできることはこれだけ。これだけしか思い浮かばないんだもの。
 今日は徹夜になっても構わない。本当はもう眠いし、徹夜なんて普段なら絶対しないことだけど。
 由香里――。
 私はクラスメートに思いを馳せた。
 大丈夫だよ。一人じゃないよ。兄貴、ああ見えてもしっかりしてるんだから。
 頼りないと思ってたけど、頼りないのは私の方だったね。兄貴。
 加奈――相談する相手に真っ先に私を選んでくれてありがとう。
「うー。目がしぱしぱする」
 哲郎が降りて来た。
「あれ? みどりくんまだ起きてたの?」
「祈って! 哲郎さん!」
「え?」
「勉強で忙しいのはわかってる。でも、祈って!」
「……何があったんだい?」
「由香里が――クラスメートが妊娠したの」
「なるほど。意に染まぬ妊娠だったってわけか」
 さすが哲郎。飲み込みが早い。
「由香里は産みたいって」
 子供に罪はないものね。
「それはえらい。子供はみんな神様からの授かり物だからね」
 哲郎がうん、うんと頷きながら言った。
「よし、今日は僕、徹夜で祈るよ」
 そしてどっかと腰を下ろした。
「勉強は――大丈夫?」
「ああ。今日の分はもう終わった。僕は浪人生だからいくら勉強しても勉強のし過ぎってことはないんだけど――今は事情が事情だからね」
「ありがとう。哲郎さん」
「いやいや、なになに」
 そう言うと哲郎はぶつぶつ呟き始めた。
 兄貴から連絡はまだ来ない。由香里の両親と話し合っているところかしら。
「あたし、ちょっと純也見てくるわね。大丈夫。アタシも祈っているから」
 えみりがウィンクした。彼女の明るさが、時に陰々滅滅に陥りがちになりそうな私を救ってくれる。
 ――黒電話もまだ鳴らない。
 神様。父親はダメな男かもしれないけど、生まれてくる子供に罪はありません。
 ――あ、あるのか。原罪という罪が。
 由香里の子供は――生まれてくること自体、十字架を背負ってくるんだわ……。
 せめて由香里が愛してあげなくては可哀想よ。彼女は産む決心をしてる。その決心が揺らがないといいけど。
 ん? ちょっと辛辣だったかしら。でも、由香里はついさっきまで嫌いだったし……。
 でも今は――応援してる。哲郎や兄貴と一緒に。
 ぴんぽーん。
 チャイムが鳴った。兄貴かと私は玄関に走って行った。
「よう」
 雄也だった。
「なぁんだ。雄也さんか」
「なんだとはご挨拶だな」
「あら、雄也」
 えみりも現われた。
「はいこれ。純也が好きだったろ、オレンジジュース。それからついでにいろいろ回って必要そうなもん買って来た」
「――ありがとう。助かったわ。ジュース切らしてたもの」
 私は――つい泣きたくなった。
 えみり、雄也。多分彼らは私の両親以上に理想の両親になったわ。純也は幸せね。こんなにいいお父さんとお母さんがいて。
 由香里のお父さんも……もし別の人だったら……。
 私は盛り上がった涙を指で拭った。
「どうしたの?! みどり?!」
「なんかあったのか?!」
「雄也さん、えみり。あなた達立派よ」
「え? どうして……」
「純也の面倒をよく見て――純也を一生懸命愛して……」
「当たり前だろう! 俺達親なんだから!」
 でも。それができない人もいる。世の中できた親ばかりではない。私の両親もいい方だとは思ってたけど。――私はお父さんにとりつくしまのない態度を取ったことを済まなく思った。いくら由香里のことがあったからって、もうちょっと言い方なかったかな……。
 ――その時。バッハインベンションが鳴った。


2014.2.20


おっとどっこい生きている 146
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