おっとどっこい生きている
143
 次の瞬間――
 ひゅん! と風が通り抜けた。
 と思った瞬間――。
 がっしゃあああああん! ――と、盛大にグラスが割れる音がした。 
 相手の男が倒れていた。兄貴だ。兄貴がやったのだ。そしておまけに鳩尾に一発!
「ぐぇっ!」
「兄貴!」
 私は動けずにいたが何とかそれだけ叫んだ。
「おい、由香里とやら」
 兄貴が言った。
「は……はい!」
「どうやらアンタの恋人は最低の男だったらしいな」
 兄貴……。
 私は……秋野駿が自分の兄貴で良かったと思った。そりゃ、暴力はいかんよ。いかんけども……。
 由香里の恋人も言ってはならないことを言ったのだから。
 兄貴は『ダンケ』の支配人に謝っている。支配人は兄貴に注意はしているものの、そう腹を立てている様子でもないらしい。――あの男はこの中でも特にブラックリストだったらしい。
 それとも、喧嘩はこの店では日常茶飯事か……。がらが悪いなんてもんじゃないって言ってたしなぁ、加奈が。
「行こう、みどり、加奈――由香里」
 そうだね……ここは退くのが一番ね。
 由香里の仇も取ったし。あの最低男には赤ちゃんなんて育てられないわ。蹴られて少しは由香里の痛みもわかったかしら。
 でも、これからどうするんだろう……由香里。
 他人事ながら心配になる――って、もう他人事じゃないわね。
「ありがとう……ございます」
 由香里はいつにもなくしおらしい。なんか調子狂うなぁ……。
「どうしたのよ、由香里」
「ううん、何でも……」
 由香里は遠くを見ているようだった。
「駿!」
 雄也がやってきた。
「遅いぞ! 雄也!」
「すまんすまん。でも――あらかた片付いちゃったみたいね」
 従業員が割れたガラスを掃いている。雑巾で濡れた床を拭いている人もいる。

「駿が『ダンケ』に来るとは思わなかったよ。ここは俺達の巣だったんだから」
 私は思わず雄也の方に向き直る。兄貴が言った。
「ちょっと事情があってな」
「やぁ、マスター。久しぶり!」
 雄也は支配人に手を振る。支配人はふん、と鼻でせせら笑った。
「俺ねぇ、昔不良少年だったの」
「何となく想像はつくわ」
 私は雄也にずばっと言ってやった。
「それを更生させてくれたのが駿ってわけ」
「へぇー、偉いじゃん、兄貴」
「まぁな」
 兄貴は得意がっている。
「そろそろ店出ません?」
 加奈が促した。
「おう、そうだな。マスター、これ騒がせ賃」
 支配人は何とも言えぬ複雑な表情で受け取った。由香里の恋人が言った。
「て、てめぇら……覚えてろよ」
「こっちは覚えていたくなんかないね」
 雄也が反駁した。
「まぁ、おまえさんがこの渡辺雄也を知らないってんなら教えてやるけどさ――昔はここで番張ってたんだぞ。女にゃ滅多に手を出さなかったけどさ」
「けっ、知るかよ」
「アンタ……この人には逆らわない方がいい。柔道と合気道やってる」
「…………」
 支配人の言葉に男は黙りこくってしまった。なんだ、口ほどにもない。
 それとも、兄貴の攻撃がきいたのか……。
 それより気になることが……。
「えみりともここに来てたの?」
「――まぁね」
 雄也はそれ以上は口に出さなかった。
 兄貴も、
「まぁ、いいじゃないか、昔のことは」
 とお茶を濁した。雰囲気もいつもの兄貴に戻っている。
「あ、あの……」
 由香里がもじもじしている。
「ありがとう、ございました……」
「アンタ、もうあんな男とは付き合うなよ」
「は、はい……」
 私は、ちょっとだけ由香里が可愛いと思ってしまった。
「由香里ちゃん。どうするの? お腹の子」
 そうだ。その問題があった。加奈も知りたいらしい。
「私……」
 由香里はきりっとした表情で私達を見据えた。
「産むわ」
「よし、じゃあ産婦人科へ行こうか」
 兄貴が言う。私も頷いた。
「そうね。産むにしてもまず病院で診てもらった方がいいかもね。でも、今日はもう遅いし、明日の方がいいんじゃないかしら」
「由香里ちゃん。私もそう思う。それより、さっきの騒ぎ――赤ちゃん大丈夫かしら」
「平気よ、加奈」
 由香里は辛そうに微笑んだ。辛いのは肉体的にではなく、精神的なものかもしれない。彼氏だと思っていた人に裏切られたのだから――。
 しかも、誰にでも言い寄る女のレッテル貼られたようなものよ、これは。
 兄貴が訊いた。
「由香里さん……えっと……」
「高部です」
「高部さん、ご両親に相談した方が……」
「まっ」
 由香里がくすくすと笑った。
「何がそんなにおかしいのでしょう」
「駿さんでしたっけ? あなた、さっきはあんなに乱暴な振る舞いしてたのに……まるで、まるで私が……」
 由香里が涙を一筋こぼした。
「私がお嬢様みたいな扱いをして……」
「だって、高部家だっけ? ――の愛娘だろ?」
「……愛娘なんて思っているかしら。あの人達」
 なんか、由香里もいろいろありそうね。
「とにかく送って行くよ。もうこんな時間だから、家へご相談に伺うのは明日の方がいいかな」
「駿……由香里さんのことは由香里さんの問題だろ? 当人同士で解決した方がいいんじゃ……」と、雄也。
「でも、ほっとけないだろ!」
 うわぁ……この熱血ぶり! 私も兄貴がいなかったら同じことを言ったと思う。
 確かに私もこの兄と血が繋がっているんだなぁと感じた瞬間だった。

2013.9.21


おっとどっこい生きている 144
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