おっとどっこい生きている
141
 私達が帰ると兄貴が出迎えてくれた。
「お帰り、みどり。哲郎」
「やぁ、まだパーティーしてたのかい? 秋野くん」
 哲郎が片手を上げた。
「いや。みんなもう帰った」
 ふぅん。兄貴の友達、見てみたかった気がするけど。特に、うちの兄貴のファンになったという頓狂な人達に。全く物好きなんだから。
「いつかみのりも来るってさ。あの子、蘭子と仲いいから」
「……私に似ている人ね」
「そ。みのりは駿くんにはあまり会いたくないようだけど。純也には会いたいって言ってた」
「そういえば、純也くん大丈夫なの?」
「ん。もう熱もだいぶ下がったわ」
 良かった。私はほっと胸を撫で下ろした。
「純也の顔見て行く?」
「うん」
 純也は眠っていた。――安心しきった顔で。
 良かったね、純也くん。優しいお姉さん達ばっかりで。えみりもなんだかんだ言って優しいし。純也くん、君は三国一の幸せ者だね。
「ピザ残ってるよ。食べる?」
「え? でも則子さんが全部食べたんじゃ……」
「アンタの分も残しておいたのよ。もちろん、哲郎の分もね」
 おお! えみり! あなた何て気がきくのかしら!
「おい、みどり」
「なぁに? 兄貴」
「――親父から電話があった。みどりがいないと知って残念がってた」
「お父さんが――何だって?」
「元気でいるか、って。それから俺達の下宿人にも早く会いたいってさ」
「――そっか、ありがと」
 リリリン、リリリン。昔懐かしの黒電話が鳴った。
 お父さんからかもしれない。寂しい思いをさせたことを詫びなくちゃ。
「兄貴。私出る」
 私は受話器を取った。
「はい。もしもし」
「――秋野さん?」
 この声は――南加奈? なんだろ、こんな時間に。
「どうしたの? 南さん」
「秋野さ〜ん」
 南さんは涙声だ。
「えっ?! ちょっと! 泣かないでよ! 何があったの?」
「どうした、みどり」
 聞いてたらしい兄貴が声を上げた。
「兄貴、ちょっと部屋行ってて。大事な話かもしれないんだから。――もしもし、南さん? ごめんね。うちの馬鹿兄貴が……」
「馬鹿は余計だ……」
 とかなんとかぶつぶつ呟きながら兄貴は目の前から消えた。えみりもいなくなっていた。
「秋野さん……私、もうどうしたらいいか……」
「何があったの?」
「由香里ちゃんのことなんだけど……」
 げっ! 由香里かぁ……。あんまり関わり合いたくない気もするんだけどなぁ……。
 でも、加奈がこうやって電話をしてくれた以上放っておくわけにもいかんしなぁ……。
「由香里がどうかしたの?」
「由香里ちゃん、変な男と付き合っているのよ……」
「放っておきゃいいじゃない。そんなの」
 私はにべもなく言った。硬派なみどりさんとしては珍しいけど、私にだって嫌いな人はいる。その嫌いな人のリストの中に高部由香里は入っていた。
 はっきりいって由香里がどんな男と付き合っていようが興味はない。
「秋野さん、意外と冷たいのね」
「ごあいさつだこと」
「でね……由香里ちゃん、妊娠してるらしいのよ」
 何だってー?!
 由香里、そんなこと一言も……。
「相手は堕ろせって言ってんのよ。由香里ちゃんは……迷っているみたい」
「そういえば、さっき由香里に会ったわよ」
「え? 本当? じゃ、由香里ちゃんを説得して。男と別れるように」
「無茶言わないでよ。そこまでしてやる義理はないんだから――由香里には」
「由香里ちゃん、秋野さんには一目置いてるのよ。あれでも」
 そっかぁ……てっきり目の敵にばかりしてると思ってたんだけど。
 あ、でもこれが罠だったらどうすんのよ!
「これ、マジな話なんだから」
 私の沈黙をどう受け取ってか、加奈が言った。
「誰も嘘だなんて……」
「でも、疑ってたでしょ」
 それはまぁ……。口には出せないけど。
「その男ね、気に入らないと由香里ちゃんを殴ったり蹴ったりするのよ」
「えっ、でもそんな跡はどこにも……」
 ははぁん、そうか。ボディーをやられてるんだ。
「この頃はそんなこともなくなったって喜んでたら今度は妊娠でしょ? 由香里ちゃん、いつか直談判するって言ってたけど」
 ああ、相手が由香里じゃなかったら私は今頃飛び出してるわね。
「お願い。秋野さん。由香里ちゃんを助けて!」
 うん、わかった――と言いたいとこだけど、由香里じゃなぁ……自業自得って感じもするし。
「おい。みどり」
「兄貴!」
「気になって戻って来た。ちょっと代われ。やな予感がすんだ」
「やな予感?」
「あ、どうも。え? 南さん? そうです。俺、みどりの兄です。え、え――『ダンケ』だって?!」
 ダンケ? ダンケシェン? ドイツ語でありがとう?
 兄貴の顔色が変わった。私は固唾を飲んだ。
「――はい。――はい。今行きます。もしもの時は止めに入ります。お電話どうも。はい、みどり」
「え? あの……もしもし、南さん? 兄貴何て言ったの?」
「由香里ちゃんを止めるって――」
 もう! 兄貴が行くんだったら、私も行かざるを得ないじゃないの!
「わかった。私も行く」
 ああ、結局こうやって流されてしまうのね……。
「お願い。さっき秋野さんのお兄さんに言ったけど、由香里ちゃんの彼は『ダンケ』っていう店によく行ってるみたいだから」
 兄貴が叫んだのは店の名前だったのか……。
「その人、ヤの字のつく職業ではないでしょうね」
「かもしれない」
 じゃあ、兄貴を連れていくのが正解ね。兄貴は一応男だもの。いざとなったら体を張って由香里を助けることぐらいはする――はず。
「じゃあね、南さん」
「うん……実は……もう私も来てるの。秋野さんの家の前に」
 何ですって?!
 私が受話器を置いて玄関の扉を開けると、携帯を持ったまま悲しい顔をしてしゃくり上げる南加奈がいた。

 そういえば加奈の家は案外近いんだなと知ってちょっと驚いた記憶がある。――まぁ、正直あんまり加奈とは付き合いはなかったけど、お母さんはいい人だった。
 それにしても、どうして私の上には次から次へとトラブルが巻き起こって来るのかしら。そういう星の下? 宗教談義の次は高校生妊婦の説得だもんね。まるでパームシリーズ『愛でなく』のジェームス・ブライアンよ。
「どうした、みどり――その子は?」
「あ、南加奈です。初めまして……下の団地に住んでます」

2013.7.25


おっとどっこい生きている 142
BACK/HOME