おっとどっこい生きている
14
 桐生将人の家に着いた私は、チャイムを押した。
 しばらくして、将人が顔を出した。
「すまないな、秋野」
「平気よ。ただ、とるものもとりあえず来たから、赤ちゃんのことが――……」
「――え?」
「何でもないわ。お邪魔します」
 私は将人の弟さんの部屋に通された。
 小学一、二年生くらいの男の子が、額に濡れたタオルを乗せ、赤い顔で荒い息を吐いていた。よっぽど熱がひどいのだろう。
「隼人、こちら話していた秋野」
「こんにちは。初めまして。隼人くんね」
「だれ? このひと……お兄ちゃんの彼女?」
「馬鹿ッ!」
 将人が弟の顔を軽くぺちっと叩いた。
 ちょっと早熟なのかな、この子。それとも、今時このくらい、当たり前なのかしら。
 彼女と間違えられるのは、嫌じゃないけど。
「この人はね、おまえが病気だと知って、わざわざ見舞いに来てくれたんだぞ」
「――……ありがとう」
 そう言って、隼人は、私に向かってにっこり笑った。
「隼人くん、何か買ってくる?」
「ううん。なんにもいらない」
「何にもって……なんか食べなきゃ」
「たべると、きもちわるくなる」
「一応、熱さましは飲ませておいたんだけど」
と、将人が説明する。
「お昼頃には、少しは楽になっていると思うよ。食べたいものあるか?」
「――おかゆじゃないなら、なんでもいい……」
「おかゆは美味しいわよ。特に、お姉ちゃん特製の卵粥は、うちの大人達の二日酔いもぶっ飛ばすんだから」
「ほんと?」
「ほんとほんと、楽しみにしててね。お熱、どのぐらいあるの?」
「――……えっと、九度五分」
「それじゃ、何もお腹に入れなくても、具合悪いわね。吐いても、また作り直すからね」
「うん……」
「とりあえず、水分は補給しなきゃね。吸い飲みある?」
「ああ」
 将人が頷いた。
「なんか飲み物ないかしら。ただの水でもいいんだけど」
「オレンジ、ジュース、あるよ……」
と、隼人がぜいぜい言いながら。
「じゃあ、俺がやっておくから――」
「ううん。私にやらせて。こういうの、嫌いじゃないの」
「悪いな」
 私は、オレンジジュースを探しに、台所へと向かった。
「秋野」
 私は背中越しに将人の声を聴いた。
「サンキュ」

 隼人くんはいい子だった。
 時々ボールに胃の中のものを吐く。背中をさすってやる。けれど、それ以外のときは、楽しそうに、学校や家のことを話した。
 吸い飲みで、ときどきオレンジジュースを飲みながら、隼人は快活だった。熱が無ければ、さぞかし元気に生活を送っていたことだろう。
「でね、先生がね、おもしろいはなししてくれたの――……」
 隼人が木の年輪の話を一生懸命話していると、
「秋野、そろそろお昼の時間だけど」
と、将人が言った。
「オーケイ! すぐ作ってくるからね」
「俺が作るよ」
「ううん、私に作らせてよ!」
「お姉ちゃんのたまごがゆ、食べてみたい。ねぇ、いいでしょ? お兄ちゃん」
「……仕方ないなぁ。じゃあ、秋野、頼む。俺、手伝うから」
「桐生先輩、ゆっくりしてていいのに。ずっと看病してたんでしょ?」
 将人の両親は、昨日から、父方の祖父の法事に行っているらしい。将人が、弟の面倒を見ると宣言したので、後ろ髪ひかれる思いで鹿児島に旅立ったらしい。
 なんか、うちの両親とは、えらい違いだなぁ。私の親は、何も言わないうちから、押しつけそう。ま、それと同じようなことをしたわけだけど。
「そんなの、当たり前だよ。家族なんだから。でも、秋野は――……」
「他人だと言いたいの? 私達、もう友達でしょ?」
「そうか……世話になるな」
「アツアツだね、お兄ちゃん」
「馬鹿。熱いのは、おまえの額だろ」
「そうでなくてさ――……」
「さ、早く作りましょ」
 私は、さっさと部屋を出た。そうしないと、紅潮した頬を見られたかもしれなかったからだ。

 将人がお鍋を用意してくれた。使った後のもんだからと言って、彼は念入りに洗ってくれた。
 まず、お粥を鍋で炊き、隠し味に塩を入れる。塩の在処も、彼に教えてもらった。
 合間に卵を割る。
「へぇ、秋野、器用だな」
 将人は感心しているようだ。
「え? 何が?」
「だって、片手で卵を割れるなんて」
「おばあちゃんがいつもそうやってたの」
 内心照れながらも、私は答えた。
 将人は、必要なものを取ってきたり、お茶碗などを出してくれたりした。
 醤油で味を調える。
「あっという間だな。秋野、料理も上手なんだな」
「いつも作ってるから」
 私は、卵粥を隼人の元へ持って行った。

「おいしい……」
 隼人が、笑顔を見せた。そういう瞬間が、私にとって一番嬉しい。
 いつか、おばあちゃんが言ってたっけ。
 料理が上手くいかなくて、「もうやめるー!!」と駄々をこねた、子供の頃の私に向って、おばあちゃんはこう諭したのだ。
「いいかい、みどりや。美味しい料理を食べるとね、笑顔がこぼれるんだよ。笑顔がいっぱいになるとね、みんな幸せになるのさ。幸せは平和を生むんだよ。ね、料理って、素晴らしいものなの。美味しい料理を作れるまで、何度も何度も失敗しながら、挑戦していけばいいんだよ」
 だから私は、諦めずに、皆が幸せになる料理を作ると誓った。

「今日は助かったよ。ありがとう。秋野。今夜、うちの親も帰って来ると思うから、秋野のことも話しておくよ」
 将人が玄関まで見送りに来てくれた。
「そんな……。大したこともできなくって」
 もうとっくに、哲郎達も帰宅しているに違いない。純也はどうしただろう。哲郎達が教会へ連れて行ったのか、家で留守番か。家に置いていかれたときは、少し心配だな。兄貴は、ちゃんと純也の面倒を見られるだろうか。
 私は、自転車の鍵を外した。
「なぁ、秋野」
「なぁに?」
「今日のお詫びとお礼がしたいんだ。いつがいいかな」
 私は、将人の目を見て、にっこり笑って(少なくとも、そのつもりで)言った。
「日曜以外なら、いつでも」

 哲郎達は、純也を教会まで連れて行ったらしい。哲郎曰く、「アットホームな教会だから」ということだ。
 おかげで、兄貴は子守りからも、赤ん坊の泣き声からも解放されたというわけである。しかし、おかしなもので、兄貴は、その泣き声がなくて少し寂しかったらしい。
 これは、兄貴も赤ん坊アレルギーから卒業か?
 雄也もえみりも、教会が気に入ったらしい。
 教会の人達は、皆いい人で、外国の人も多くいた。牧師が、聖書のことをわかりやすく紹介してくれ、少々わからないところがあっても、質問したら、親切に説明してくれた。純也も可愛がってもらった。歌も、皆で歌えて、楽しかった。
 えみりはそんなことを嬉しそうにひとつひとつ報告してくれた。
「また行こうね。今度はみどりも一緒に」
 もちろん、私もそのつもり。
 めでたいことが続く、春の日であった。

おっとどっこい生きている 15
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