おっとどっこい生きている 私はかなり毒気を抜かれた。 「つねさんが何でここにいるんですか?」 「雄也から話は聞いたわ。えみりさんが電話くださったようだけど、あの子、バイトで忙しいから代わりに行ってくれって」 「バイト?」 岩野牧師が首を傾げた。 「ええ。『輪舞』という喫茶店で働いています。皆さんも来てくださいね」 そんな場合でないんでないの? 「岩野牧師。息子達が大変お世話になってます」 「いえいえ。いい息子さん達をお持ちで。こちらこそお世話になっております」 互いに深々と頭を下げた。 だーかーらー。もう一度繰り返すけどそんな場合でないんでないの? そりゃ、挨拶は大事だけどさ。 「みどりさんもこんばんは」 「……こんばんは」 なんか挨拶のタイミングがずれた気がする。つねさんは続けた。 「キリスト教と仏教も縁が深いのですのよ。西本願寺には『世尊布施論』という書物が宝物として存在しているという説がありますのよ」 「せろん……何ですか?」 「キリスト教の経典よ」 私の疑問につねさんは答えた。 「私は浄土真宗ですが、この宗派は景教、つまりキリスト教に影響を受けているようですの。仏教徒だからと言って、キリスト教を毛嫌いするのは間違ってますわ。私も娘時代聖書は読んでましたし」 「マタイ読み……ではないでしょうね」 失礼を承知で敢えて私は訊いた。 世の中には『マタイ読み』と言うのがある。マタイの福音書だけ読んで聖書を読んだと得意になっていることを指すらしい――阿刀田高の『新約聖書を知っていますか』に載ってた。 でも、全部読んでいたのなら、かなり失礼に当たるよなー……。 「もちろん、全部読みました」 ――失礼しました。 「どんな宗教でも迫害していい謂われはありません」 ……それはそうだけど、オウムみたいなのはどう位置付ければいいんだろう。何か、かなり危ない教えをやっていたところらしいけど。 私達、地下鉄サリン事件の時はまだ子供だったのよ。赤ん坊だったかもしれない。――閑話休題。 頼子は腕を組みながらじっと立っていた。真剣な表情。 「私達は麻生牧師の味方につきます。牧師の息子さんのことは、教会とは直接関係がないでしょう? 私の息子もいろいろ無茶やって参りましたし」 「そういえばそうだな」 池上校長が言った。 「渡辺には苦労したよ」 松下先生も頷いた。父兄達もさんざめく。 「話、聞こうよ」 と、頼子は尤もな発言をした。 「渡辺さん、私の息子のことは私どもの教会にも関係があります。私も息子も罪深い者です。清彦だけが特別悪い人間なのではありません」 「親父……」 はがいじめから解放された麻生先輩は万感の思いが籠っている声で麻生牧師を呼んだ。 ああ、いいシーンだな……。 しばらく話が途絶えた。聴こえるのは八百政のお婆さんの念仏だけだった。わだぬきはテレコを回しているらしい。静かなものだった。 「俺、こんな学校やめてもいいぜ」 麻生先輩が沈黙を破った。 「もし俺がいることで教会に迷惑がかかるんだったらな。引っ越そう。親父」 「まぁ、待て。私達がいなくなれば問題が解決するならそれでもいいが」 麻生牧師も同じことを考えていたらしい。 「ダメよ! 先輩!」 「そうよ! 今辞めたらそこのお坊さんや八百屋さんの思うつぼだわ!」 冬美と頼子が同時に叫んだ。 こほん、と咳払いが聞こえた。 見ると、父兄の一人だった。 「私達の狙いは麻生清彦くんの問題を浮き彫りにすることであって、宗教談義に来たわけではない」 「ええ。でも、今回のケースは、かなり宗教の問題も含まれています」 哲郎も参戦した。 「皆さんは宗教を持ってますか?」 「そんなもの、持ってるわけないだろう」 別の一人が言った。日本人で無宗教は珍しくはない。皆の前では一応仏教徒、という人が大半ではないかしら。 結婚式はキリスト教、葬式は仏教。そんなところね。 「麻生牧師がキリスト教の牧師でなければ、こんなに叩かれもせず、したがってこのような騒ぎにもならなかったと思うのです」 「それは、サイトでも話題になっていることだぜ」 リョウが言った。麻生牧師や先輩の他に、キリスト教も随分叩かれていたようだ。 「ヤソー、ヤソは消えろー!」 お婆さんも興奮したらしく叫んでいた。 「ばっちゃん、落ち着いて」 八百政さんが宥めようとする。八百政さんも大変だなぁ……。 ――と、敵に同情している場合ではなかった。麻生牧師や先輩を悪く言った八百政は、私の中ではいつの間にか敵になっていた。 ちょっと前だったら八百政さんに同調してたかもしれないけれど、麻生先輩は無事更生しそうだし、牧師はほんとにいい人だし。 哲郎さんも麻生先輩の真実の姿がわかったから、味方する気になったんじゃないかなぁ。 「政岡さんのお婆さん。今は信仰の自由が認められている時代です。もう、第二次世界大戦の時のような、キリスト教の暗黒時代ではないんですよ」 私も勧められて三浦綾子の小説は読んでいる。本当に、大変だった時代なのだ。 けれど、迫害の中でも息づくことができるなら―― それは本物の宗教だ。 「そうですよ、お婆さん。仏教も本物だし、キリスト教も本物よ」 私はフォローのつもりで言った。けれども、それが哲郎の癪に触ったらしい。哲郎が眉根を寄せて近付いた。 「みどりくん、まだわかってないのかい? キリスト教は本物の宗教だけど、仏教は違う」 私はあんぐりと口を開けた。 父兄達は何やら密かに喋っている。松下先生が相手になっているらしい。 「仏教は悪魔が作った宗教だ。我々の真理の光はイエス様だけだよ」 ![]() いろんな国の行事をごたまぜに取り入れて恬として恥じない、いい意味での節操のなさを持っている日本が実は大好きなのに、それがキリスト教一辺倒になったらかなりつまらない国になるんじゃない? 「みどりくん……そんな顔しないでくれ。いつだって君は仏壇に拝んでいるけど、それを我慢している僕の方だって辛いんだよ。だから、君が祈る度に僕は、『みどりくんの偶像礼拝の罪をお赦しください』と密かに祈ってたんだよ」 密かに祈ることは勝手ですけどね。それに、全然密かにでもないわよ。 「とりなしの祈りだね」 と、岩野牧師がうんうんと頷いた。 「岩野牧師……」 「この国に住んでいる限りは、サタンの攻撃があったところで仕方がないよ。でも、哲郎くんは理想的なキリスト教徒に育っていった。――私も先祖の墓参りぐらいはするがね」 「ヤソの牧師……」 平常心を取り戻したらしいお婆さんがもぐもぐと口を動かす。 「はい。何でしょう」 「先祖は大切にしなきゃいけないよ。ええ。大切にしないと罰が当たるよ」 「お婆さん。それは偶像を拝む罪なんだよ」 駄目だこりゃ。あの二人なら多分どこまで行っても平行線だわ。 時計も八時を回ってどっと人が集まって来た。 「みんな暇ねぇ……」 頼子が嘆息した。私もそう思う。頼子には父親の手伝いという大義名分があるけれど、父兄の間での座談会ではなかなか話に入って行けずぽつねんと立っていた。 「リョウ、携帯貸せ」 「自分の持ってねぇのかよ」 リョウとクラスメート(道脇と言う)が携帯の取り合いをしている。 しばらくすると生徒達もてんでに話したり、歌い出したり、ふざけ合ったりし出す。どうして学校の生徒というものは集まるとロクなことをしないのだろう。 2012.1.20 おっとどっこい生きている 138 BACK/HOME |