おっとどっこい生きている 八百政さんは吐き捨てるように言う。 「オレ、八百政さんを保健室へ連れてくよ」 リョウが言うと、 「いいっていいって」 と手を左右に振る。確かにこのお婆さんを一人ここに残して行くのは心許ないのだろう。 それに――私はちょっとショックを受けていたのだ。あの哲郎が、人に手を上げるなんて! 神光教会に批判的だったくせに、麻生先輩を庇いだてするんだもんね。 ――と、これは私も事情は同じか。『麻生』がいつの間にか『麻生先輩』になっている。 「すみません。八百政さん……」 「だからアンタが謝らなくっていいって――そんな親切ごかししても、俺は誤魔化されんぞ」 「は? 何がでしょうか」 「おまえがこの悪党の父親だってこと。おまえさん達が説く悪魔と言うのは、身近なところにいるもんだぞ」 「な……てめぇっ!」 「いけない! 清彦!」 麻生牧師は息子をはがいじめにした。麻生先輩は牧師に捕まえられてるせいで、じたばたともがくことしかできない。 「てめぇっ! 大人しくしてればつけあがりやがって! 親父がどんな悪いことをおまえにしたよ!」 「それじゃあ言う。君、仏壇に線香あげたことあるかね?」 「は? てめぇバカじゃね? 仏壇なんて牧師の家にあるわけねぇじゃん」 それを聞いて、八百政さんとお婆さんは目配せし合った。 ……何だろう、やな感じ。 「おまえはご先祖様の霊を拝んだことはあるか?」 「はぁ?」 「いいから答えろ」 「――ねぇな」 「一回も?」 「一回も」 「ほら、キリスト教は先祖の霊を拝みもしない。祟るぞ」 「罰あたりなことじゃわい」 皺くちゃになったお婆さんはもぐもぐと口を動かした。 「あー。ここかね。話し合いの場は」 がらりと入って来たその人の格好を見て、思わず私は笑いを堪えた。 袈裟姿の坊主頭の僧侶だったからだ。 「万福寺の旦那!」 八百政さんが嬉しそうな声を上げた。さも百人前の味方が来てくれたとでも言ったように。 「さぁ! この悪党どもの為にひとつあの話をしてくださいよ! さあ!」 「では……」 お坊さんは数珠を持って手を合わせた。哲郎も、 「アーメン」 とか何とか言って、対抗しているつもりらしい。 「私の檀家が教会の為にひとつ減りました」 みじかっ! それで終わり? 「キリスト教はイエス様しか信じない。だから、このお寺とも今日限りだ。そう言って、あの人達はみんなキリスト教に寝返った。ここは仏教の国なのに」 「それはおかしいと思います」 誰も注目してなかった方から声が飛んだ。――松下先生! 「この国には昔から神道というものがある。八百万の神とかな」 「そのぐらい知ってますとも」 万福寺のお坊さんは言った。 「しかし、時代は変わったのです。神仏混交の寺もある」 「否定はしません。けれど、信教の自由があるはずです。万福寺が良くて神光教会な駄目な理由が私にはどうしても見当たりません」 「神光教会は人を駄目にします。ほら、あそこにいる牧師の息子も悪く育ちましたし」 ふんだ。要は檀家がひとつ減ったから神光教会に八つ当たりしてんじゃないの。ふん。とんだ生臭坊主め! 「俺のせいで教会の評判が落ちるというわけだな」 麻生先輩が噛みつくような顔で言った。 「そうです。あなた方はこの町を出られた方が――結局はあなた方の為になります」 じょおっだんじゃないわよ! 断じて! じょおっだんじゃないわよ! 岩野牧師も苦虫噛み潰したように見てる……さっき振り返った時、その表情がちらっと見えたのだ。坊さんは続けた。 「仏を捨てた者は極楽浄土に入れません」 「だったら、さっさと捨ててキリスト教の天国に行く方がいいんでないの? 捨てる神あれば拾う神ありよ」 私が反駁した。う……く……と頼子の笑いを堪える声が聴こえる。 「だいたい、さっきから何よ。檀家がひとつ減ったっていいじゃない。松下先生も言う通り、信教の自由があるわけですから。――お坊さんはキリスト教がお嫌いみたいね」 「ええ。あまり好きではありません。キリスト教は偏狭です」 「確かにそんな部分もあるかもしれないわ。でも、どうして神光教会はそっとしておいてくれないのよ。あんたがどこの教会のクリスチャンのこと言ってるんだか知らないけど、それって、江戸の仇を長崎で討つっていうのよ!」 マンガの諺辞典を昔愛読していたおかげで、諺には少々自信があるのだ。 「江戸の仇を長崎で――そういえば長崎でもキリスト教は発展しましたね。あなたはクリスチャンか何かですか?」 「みどりくんは神学校の生徒です」 哲郎がフォローしてくれた。ありがたい! 私はまだ、洗礼受けてないもの。 だから、こんな風に偉そうに説教する資格、本当はないんだ。 「僕は、秋野くんの中身はクリスチャン以上にクリスチャンだと信じております!」 「つまり、まだクリスチャンじゃないわけか……みどり! さっきはよくも我々に説教めいたことを言ったな」 八百政さんが初めて私を呼び捨てにした。 「あなた方だって威張れる立場ですか!」 哲郎の意気が上がる。 「戦争中のことを考えてみてください! キリスト教のあの迫害を! 学校で習わないのなら、神学校に来てください! 僕達がいかに苦労してるかわかりますから!」 「だが、今は戦争中でない」 「一度あったことが二度起きないという保証はないでしょう!」 「――確かにないね」 岩野牧師が静かに言った。 「キリスト教内でも迫害が起こっている始末ですからね。あまり大きな声では言えませんが」 「はっ。だからキリスト教は信用できねぇんだよ。人様に説教するより、まず先に自分の陣容を整えやがれってんだ」と、八百政さん。 「それは私達仏教徒でもそうではありませんこと?!」 この張りのある威厳に満ちた女の声は―― 「つねさん!」 「渡辺つねです。お久しぶりです」 「わ、渡辺……?」 「渡辺雄也の母でございます」 「あー、あの」 池上校長はぽんと手を打った。 「雄也と言ったらあれですよ。尾崎豊にかぶれて廊下の窓を割って回した……」 「単位が足りなくて留年寸前だったあの生徒だ」 松下先生もそれに乗る。 「そうです。その生徒です」 つねさんは些かバツが悪そうにしている。雄也、つねさんの恥にしかなってない。 「いやぁ、渡辺くんはあれでもちゃんと卒業して大学へ行ってているのだから偉い! 世の中何とかなるもんですなぁ」 と、池上校長。 「どうも、うちの不肖の息子がお世話になりました」 「で、どうしてます? 今。ああ、秋野家に下宿なさってるんですよね。小林えみりと結婚して子供まで設けたんでしたっけ」 「ええ。秋野さん達にはお世話になっております」 「来年大学ご卒業ですか?」 「ええ。えみりさんも退学を考えていたところにいいお友達に出会えて――本当に感謝してますわ」 2012.12.16 おっとどっこい生きている 137 BACK/HOME |