おっとどっこい生きている 鏡の前でついつい出て来る、溜息。 今夜は学校で麻生牧師の弁護をしなくちゃ。 でも、それより先に、川島道場に行って将人に会わなくちゃ。 それなのに、溜息が出る。将人に会うのが嫌なんじゃないわ。ほんとよ。 だけど、今夜のことを考えると、気が重くって。 キリスト教の歴史は、少しだけ知ってる。日本の教会は今は市民権を得ているように見えても、どこで転じて迫害されるようになるかわからないということ。 私、哲郎や麻生牧師を応援したい。 今は出かける準備をしなくてはならないけれどね。川島道場に。 私はビーズのネックレスを手に取った。 将人が私に買ってくれた最初のプレゼント。つけておくわね。 少しでも気分を浮き立たせようと、鼻歌などを歌い始める。 「ご機嫌だな」 背後に兄貴がいた。いつの間に。 「そ……そう?」 「ああ」 兄貴が笑った。この笑顔が食わせものなんだよね。 「デートか?」 「うん、そう」 「――がんばれよ」 「うん。わかった。――と、いけない! すぐ行かなきゃ!」 私はネックレスの留め具を留めようとした。 「貸せ。俺がやってやる」 「ありがと、兄貴」 ネックレスが首元を飾る。 「行ってきます」 私は急いで家を出た。 川島道場まで自転車で行った。自転車はなかなか便利だ。 「将人―!」 「おっ、桐生の彼女だ」 「よぉーっす、秋野さん」 「秋野!」 将人が出入り口まで迎えに来てくれた。息が荒いのは稽古中だからだろう。将人に会えた嬉しさで、今までの憂いが吹っ飛んだ。 「来てくれたんだね」 「うん。はい。これ、おべんと」 「ありがとう」 その時、俺らにもくれよーの大合唱が聴こえた。 「だめだめ。これは俺の」 「ちぇー。桐生のケチ」 「一口だけなら恵んでやる」 「あ、ほんとー。悪いな催促したみたいで」 催促したみたい、じゃなくて、催促そのものなんだってば。 川島先生が来た。 「昼だな。食事にすっか」 「おおー!」 「桐生。秋野の弁当、俺にもくれ」 「いいっすよ」 「おいおい。俺達はだめだって言ったくせに」 「冗談だよ」 何か……将人が可愛い。年相応の少年とじゃれてるところが。いつもはしっかりしてるが老成した人って感じだったもんなぁ。 まぁ、そういう将人も好きだけど。 「ミニ春巻きちょうだい」 「卵焼きゲット―!」 「大根とにんじんの酢の物ー!」 将人の友人達は、嬉しそうにめいめいお箸で弁当の具を奪い合う。 「うめ、うめ。秋野、料理の才能ある」 もごもごと話しているのは、岡さんだ。 あたぼうよ。十年近くおさんどんやってきたんだから。 「おい、俺の分も残しておけよ」 川島先生が笑った。 笑うと笑い皺が出てきて、何となく愛嬌のある顔になる。 「大丈夫ですって。これ、川島先生の分です」 「おお。サンキュ」 川島先生が一口食べる。 「ほぉ。桐生は料理上手な彼女を持って幸せだな」 私と将人はそこで何となく頬を染めながら顔を見合わせる。 「もう結婚しちゃえば?」 「キスはしたよね、お二人さん」 「いや……実はその……まだなんだ」 「ひょー! 勿体ねぇ!」 「こらこら、色恋沙汰にうつつを抜かすとは、ここは女子寮か」 「先生が始めたくせにー」 指摘されて、川島先生はこほんと小さく咳払いをする。 「秋野。練習見て行くか?」 「いいんですか?」 「ああ」 「午前中はほとんど走りっぱだったもんな俺ら」 生徒の一人――名前が出て来ないや――が言う。 「基礎体力は大事だぞ」 川島先生は恬として取り合わない。 「じゃ、秋野も見ていることだし、試合形式で練習やるか」 「やった!」 やはり、みな剣道が好きなのだ。将人は準優勝だった。ちなみに優勝は岡さん――岡啓二さん。 「よくやったぞ。桐生」 「やぁ、先輩には敵いませんよ」 「当たり前だ。こっちは年上なんだからな。若僧に負けてたまっかよ」 愉快でたまらないという風に岡さんは大声で笑った。 「ちょっと動きが早くなったんじゃない?」 私は将人に指摘した。生意気って怒られないかしら。 「え? そう?」 幸いにも、心の広い将人は、嬉しそうに微笑んだ。汗をタオルで拭っていた彼が、私の首元に注目する。 「つけてくれてるんだ……ネックレス」 「うん……」 私は照れて俯いた。川島道場には今日初めて、ネックレスして来たんだ。 「つけてくれてありがとう。あげた甲斐があったよ」 「私の方こそ……プレゼントしてくれてありがとう」 今度は囃したてる者もいない。だが、じーっと見つめている。 「あ、同居人の方々にも、宜しく」 「わかったわ。――私、もう行かないと」 哲郎と麻生牧師と一緒にあのモンスターペアレンツに対抗せねば。もちろん、それは将人には伝えない。 また来いよ――将人は温かくそう言ってくれた。 おっとどっこい生きている 132 BACK/HOME |