おっとどっこい生きている
131
「ふぅ……」
 鏡の前でついつい出て来る、溜息。
 今夜は学校で麻生牧師の弁護をしなくちゃ。
 でも、それより先に、川島道場に行って将人に会わなくちゃ。
 それなのに、溜息が出る。将人に会うのが嫌なんじゃないわ。ほんとよ。
 だけど、今夜のことを考えると、気が重くって。
 キリスト教の歴史は、少しだけ知ってる。日本の教会は今は市民権を得ているように見えても、どこで転じて迫害されるようになるかわからないということ。
 私、哲郎や麻生牧師を応援したい。
 今は出かける準備をしなくてはならないけれどね。川島道場に。
 私はビーズのネックレスを手に取った。
 将人が私に買ってくれた最初のプレゼント。つけておくわね。
 少しでも気分を浮き立たせようと、鼻歌などを歌い始める。
「ご機嫌だな」
 背後に兄貴がいた。いつの間に。
「そ……そう?」
「ああ」
 兄貴が笑った。この笑顔が食わせものなんだよね。
「デートか?」
「うん、そう」
「――がんばれよ」
「うん。わかった。――と、いけない! すぐ行かなきゃ!」
 私はネックレスの留め具を留めようとした。
「貸せ。俺がやってやる」
「ありがと、兄貴」
 ネックレスが首元を飾る。
「行ってきます」
 私は急いで家を出た。
 川島道場まで自転車で行った。自転車はなかなか便利だ。
「将人―!」
「おっ、桐生の彼女だ」
「よぉーっす、秋野さん」
「秋野!」
 将人が出入り口まで迎えに来てくれた。息が荒いのは稽古中だからだろう。将人に会えた嬉しさで、今までの憂いが吹っ飛んだ。
「来てくれたんだね」
「うん。はい。これ、おべんと」
「ありがとう」
 その時、俺らにもくれよーの大合唱が聴こえた。
「だめだめ。これは俺の」
「ちぇー。桐生のケチ」
「一口だけなら恵んでやる」
「あ、ほんとー。悪いな催促したみたいで」
 催促したみたい、じゃなくて、催促そのものなんだってば。
 川島先生が来た。
「昼だな。食事にすっか」
「おおー!」
「桐生。秋野の弁当、俺にもくれ」
「いいっすよ」
「おいおい。俺達はだめだって言ったくせに」
「冗談だよ」
 何か……将人が可愛い。年相応の少年とじゃれてるところが。いつもはしっかりしてるが老成した人って感じだったもんなぁ。
 まぁ、そういう将人も好きだけど。
「ミニ春巻きちょうだい」
「卵焼きゲット―!」
「大根とにんじんの酢の物ー!」
 将人の友人達は、嬉しそうにめいめいお箸で弁当の具を奪い合う。
「うめ、うめ。秋野、料理の才能ある」
 もごもごと話しているのは、岡さんだ。
 あたぼうよ。十年近くおさんどんやってきたんだから。
「おい、俺の分も残しておけよ」
 川島先生が笑った。
笑うと笑い皺が出てきて、何となく愛嬌のある顔になる。
「大丈夫ですって。これ、川島先生の分です」
「おお。サンキュ」
 川島先生が一口食べる。
「ほぉ。桐生は料理上手な彼女を持って幸せだな」
 私と将人はそこで何となく頬を染めながら顔を見合わせる。
「もう結婚しちゃえば?」
「キスはしたよね、お二人さん」
「いや……実はその……まだなんだ」
「ひょー! 勿体ねぇ!」
「こらこら、色恋沙汰にうつつを抜かすとは、ここは女子寮か」
「先生が始めたくせにー」
 指摘されて、川島先生はこほんと小さく咳払いをする。
「秋野。練習見て行くか?」
「いいんですか?」
「ああ」
「午前中はほとんど走りっぱだったもんな俺ら」
 生徒の一人――名前が出て来ないや――が言う。
「基礎体力は大事だぞ」
 川島先生は恬として取り合わない。
「じゃ、秋野も見ていることだし、試合形式で練習やるか」
「やった!」
 やはり、みな剣道が好きなのだ。将人は準優勝だった。ちなみに優勝は岡さん――岡啓二さん。
「よくやったぞ。桐生」
「やぁ、先輩には敵いませんよ」
「当たり前だ。こっちは年上なんだからな。若僧に負けてたまっかよ」
 愉快でたまらないという風に岡さんは大声で笑った。
「ちょっと動きが早くなったんじゃない?」
 私は将人に指摘した。生意気って怒られないかしら。
「え? そう?」
 幸いにも、心の広い将人は、嬉しそうに微笑んだ。汗をタオルで拭っていた彼が、私の首元に注目する。
「つけてくれてるんだ……ネックレス」
「うん……」
 私は照れて俯いた。川島道場には今日初めて、ネックレスして来たんだ。
「つけてくれてありがとう。あげた甲斐があったよ」
「私の方こそ……プレゼントしてくれてありがとう」
 今度は囃したてる者もいない。だが、じーっと見つめている。
「あ、同居人の方々にも、宜しく」
「わかったわ。――私、もう行かないと」
 哲郎と麻生牧師と一緒にあのモンスターペアレンツに対抗せねば。もちろん、それは将人には伝えない。
 また来いよ――将人は温かくそう言ってくれた。

おっとどっこい生きている 132
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