おっとどっこい生きている
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 コンコン。
「誰だい?」
 部屋の中から哲郎の声が聞こえる。
「みどりだけど」
「入りたまえ」
 私は扉を開けた。哲郎は勉強をしているようだ。
「湯豆腐……持ってきたんだけど……」
 私の声は、我ながら消え入りそうだった。
 もう! リョウが変なこと言うから!
「ありがとう。そこ置いておいてくれるかい? この問題を解いたら食べるから」
 私は何となくそこにいた。
「行かないのかい?」
「あ……行くわ」
 私は立ち上がろうとした。が、思い直して座った。
「話があるの」
 哲郎はこちらを見、検分するような目をした。
「わかった」
 そうすると、哲郎は扉を開けた。
「男女間で同じ部屋にいる時には、ドアは開けないとね」
「大丈夫。私、哲郎さんを信じているわ」
「そうかい? けれど僕も男だからね」
 そう言って、哲郎は座布団の上に座った。
「だって、哲郎さんには異性を感じないんだもの」
「あれっ? 失礼じゃないか」
 哲郎は笑った。
 でもね――奈々花は哲郎を男として好きよ。私は友達の好き。
 何で奈々花がこの男に恋をしたのかわからないけれど、蓼食う虫も好き好きってやつだろうからなぁ。
「リョウがね……変なこと言ったの」
「何て?」
「私は自分のことしか考えてないって」
「――気にしなくていい。人間はみんな自分のことしか考えない。――イエス様を除いてはね」
 哲郎の眼鏡の奥の聡明な瞳がきらりと光る。
「哲郎さんが――私のことまだ好きだって」
「好きだよ」
 哲郎は頷いた。
「否定しないのね」
「だって、少なくとも嫌いではないし、それに――」
 哲郎はここで一拍置いた。
「僕は君に恋しているからね」
「でも――奈々花とその……キス、したんでしょ?」
「そんなことを気にしているのかい? あれは事故のようなものなんだよ。――いや、奈々花くんのせいにしては可哀想だな。僕にも隙があったんだし」
「私はいいのよ。私には将人がいるから」
「ああ。駿くんと学校のホームページで写真を見せてもらったよ。なかなかいい男じゃないか。隼人くんも鼻筋が整っているけど。やはり兄弟だね」
「うん……まぁね……」
 そっか……将人有名人だもん。ホームページに写真くらい載るわよね。
「今度駿くんに頼んで、今度見せてもらったら?」
「うん」
 私は滅多にパソコンに触らない。パソコン自体、私の部屋にはない。
 兄貴はネットサーフィンが趣味だ。ネットサーフィン『も』と言った方がいいかもしれない。多趣味な男なのだ。
 今も兄貴はどこかのサイトを見ているのだろうか。ふと、気になった。
「哲郎さん、パソコンできる?」
「できるよ。と言っても、まぁ、それなりにね」
「へぇ、私はあまりやらないな」
「みどりくんならすぐ使いこなせるようになるよ。本気になればね」
 ああっ! もうっ!
 本当はこんなこと話したいわけではないのに。
「でも、駿くんのパソコンに勝手に触るわけにはいかないしね」
「うん、まぁ、そうだね」
「僕もパソコン欲しいけど、お金もないし、それにこれ以上眼鏡の度が進んだら怖いからね」
「近眼の人なんか大勢いるわよ」
「でも、これ以上ぼんやりとしか映らなくなったら困る。君の顔は、はっきりと目に焼き付けたい」
 急に口説きモードに変わった。こんな時、海千山千の女性なら上手くかわすのだろうけど。
「なな、かは……?」
「奈々花ちゃんは可愛い。けれど、恋じゃない。僕の恋は――君だけだ」
 哲郎が私を見つめる。妙な沈黙が走った。
 これは――。
 前に将人とキスするところだった時のあの緊張感に似ている。ただ、今回は――。
 私の頭の中で警告が鳴った。
(早く行かなくちゃ)
 でも動けない。哲郎も動かない。ただ、黙っているだけで――。
 ただ黙っているだけで、お互いいいような気がした。
 この広いと言えない部屋の中で、哲郎と私、二人きり。
 妙な空間。この空間には、今は哲郎と私だけしかいないような――。
 それでも、充分幸せだった。今だけは、奈々花のことも、将人のことも忘れた。
 私も哲郎を見つめている。
 聖書には、情欲を持って異性を見る者は既に心の中で姦淫を犯しているのだ、と言う。
 でも、これは、情欲ではない。もっと純粋な、もっと崇高な――。
 哲郎は女を押し倒したりはしない。私と話をするだけでも、わざわざ扉を開ける青年なのだ。
 もしかして絶滅危惧種なんじゃないかと私は訝るぐらいで――でも、そういう人は意外といるのかもしれない。
 真面目人間なのだ。息が詰まる程。
 そんな哲郎が奈々花に対して隙を見せるとはどうしても思えない。奈々花には悪いけど――誘ったのは奈々花なのではあるまいか。
 彼が奈々花とやっているのはキスだけだし――私と将人だってあわやキスするところまで行ったんだし……。奈々花のことをとやかくは言えないけど。
 哲郎は結婚しても浮気はしないだろう。教会に対しても――。
 そうか。
 哲郎の恋人は教会、ひいては神様なのかもしれない。
 だから、彼の目はこんなに澄んでいるんだ。
 まぁ、私に恋をしているとの言うのも本当かも知れないが――それは、教会に対する態度とは全く違う。
 もしかしたら、この人は一生独身を貫くのではあるまいか。そういう潔癖さが、彼にはあった。
 神様が、結婚するな、と命じれば、この人は結婚しないのではないか。
 奈々花とも……奈々花は本気だけど。
 つねさんが信じる浄土真宗の親鸞は、仏の導きによって妻帯することを決意したようであるが――。
 哲郎はどうなるのだろうか。結婚しろ、と言われれば、結婚するのだろうか。全ては神の言葉によるのだろうか。
 そういう生き方は、窮屈なのではあるまいか。いくら宗教とはいえ。
 宗教は麻薬だ。そう言った人がいた。けれど、哲郎を見ていると、麻薬をやっている人の荒んだ感じはしない。当たり前だが。
 だが、ある種の偏狭さを神は彼にお与えになった。
 彼はイエス様しか信じない。イエス様の道が彼の道だ。
 聖栄教会が異端だとは思わないけれど――ほんの少しの間だけ見つめるだけで、私は少し哲郎がわかったような気がした。
 彼はピュアだ。純真過ぎて、己の想いに真っ直ぐで。
 私がこの社会不適応者と時間も忘れて見つめ合っていると――兄貴が飛び込んできた。
「みどり! 神光教会が大変だ! 麻生の記事捏造事件を父兄にリークした奴がいる!」

おっとどっこい生きている 127
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