おっとどっこい生きている 雄也はアルバイトにでも行っているのだろう。 「遅ぇぞー、秋野」 リョウが言った。 「ごめんごめん」 私は一応謝った。 「でもね、今まで宿題やってたから」 「げっ、宿題! やなこと思い出させんなよ〜」 リョウが頭を抱えた。 「ふっふっふ。私でも苦戦したのよぉ。ま、リョウも精々頑張りなさいよ」 私の内にはサド心、というか、意地悪心が黒雲のようにむくむくと湧いて来た。二十面相みたいな笑いが込み上げてくる。今の私は、さぞにんまりと、という言葉が合いそうな顔をしていただろう。 「秋野」 「何?」 「宿題写させて」 「やだ」 「だってさぁ、オレこれからおまえの作文見なきゃいけないんだよぉ?」 「小説よ。それに、今日でなくてもいいんだからさぁ」 「今、いいとこなんだってばよぉ……エレンが車から脱走したとこ」 「ああ、そこまで読んだの?」 「オレ、読むの早いんだよ。でも、クライマックスは食後にとっとこうと思ったのに」 「みどり。おまえ、また小説書いてたのか?」 兄貴は呆れたように言った。 「悪い?」 「悪くない。でも、俺にとっては事実の方が面白い」 「駿ちゃん、ルポライター志望だもんね」 えみりがエプロンで手を拭き拭き現われた。 彼女は今は茶髪だ。その髪にエプロン姿はよく似合う。 本当に素敵な若奥様になった。えみりは。 「あ、えみりさん」 リョウの台詞の末尾に、ハートマークがついたように思えたのは気のせいだろうか。 「今ねぇ、哲郎呼びに行ったとこ。後五分ぐらいで来るってさ」 えみりが説明した。 「哲郎サンの分、オレ食っちまうぞ」 リョウならやりかねない。 じゃあ、今度は私が哲郎さんに何か夜食でも作ってあげるか。おじやがいいかな。大好物だって言ってたから。 「せっかく哲郎の好きな湯豆腐なのになぁ」 兄貴は残念そうにぼやいた。 まぁ、何にせよ助かったわ。ご飯中に、よその教会行きたいと話すのは……ちょっと気が引けるのよねぇ……。自分の中では、もうとっくに解決がついたと思ってたのに。 神光教会へ行くって言ったら……やっぱり哲郎いい顔しないだろうなぁ……。 って、私、何一人でぐるぐる悩んでんの?! そんなの私らしくない! 「私、ちょっと哲郎さんのところへ行ってくる!」 「え? みどり……アタシ、せっかく夕飯作ったのよ。そんなこと後ででいいじゃない」 えみりが泣きたそうにエプロンの裾を齧っている。 う……それ言われると弱いなぁ……。 「何だよ、みどり、急ぎのことかよ?」 兄貴が口を挟んだ。 「ん……そういうわけじゃないけど」 「だったら、えみりサンの手料理味わう方が先じゃね? 旨いよ」 リョウはそう言いながら、上の方を向いた。 「何やってんだろ、哲郎サン。ほんとに湯豆腐食っちまうからな」 哲郎は勉強に決まってるでしょ! 見習いなさい! 不良少年! 「あ。哲郎のはもう分けてあるから」 「何だ」 大して面白くもなさそうにリョウは答えた。その時――。 「にゃーん」 と、甘えた声でフクが鳴きながらリョウの膝に陣取った。 「お、旨そうな匂いにつられてフクが来たな。フークフク。おまえも湯豆腐食うかぁ?」 「猫って豆腐食べるの?」 えみりがリョウの隣に回って、中腰でフクを覗き込む。 「わかんない。やってみようよ」 「こら! 駄目に決まってるでしょ! 猫のご飯はキャットフードと決まっているんだから!」 私は思わず叫んだ。そして続けた。 「変に舌が肥えたらどうするつもりよ!」 「うーん、それもそうねぇ……」 えみりは座ると、乙女っぽく、顎に人差し指をかける。もう片方の手でフクの頭を撫でながら。 「いいじゃん。その時はその時」 「猫の飯なんて、ねこまんまで充分だよ」 「何すか? 駿サン、ねこまんまって」 「ご飯に味噌汁ぶっかけるやつ。簡単だろ? おまえ知らなかったのか」 「知らなかったっす」 「俺の得意料理だ」 兄貴が得意げに自慢する。 全世界の主婦の皆さんに悪いとは思わないの? そんなの決して、本当に、絶対、料理ではないんだからぁッ! ま、兄貴は不器用だからね。 こんな男によくもまぁファンクラブができたものだ。 さっさと料理好きな女の子と結婚するがいいわっ! あ、でも……兄貴って、もう経験済んじゃってるんだよね……。 わぁん。どうしよう。兄貴がおまえみたいな遊び人に娘はやらんっていうお父さんがいるとこの箱入りのお嬢様に惚れたりなんかしたらッ! 有り得る……。だって、兄貴って私のようなお嬢様がタイプなんだものね。 ん? 今誰か笑わなかった? ……気のせいか。 「みどり、早く早く」 えみりが私をせっついた。――おっと、急がなきゃ。 私は席に座った。 「いただきます」 まずはお味噌汁を。 「――美味しいわね」 「ふふふ。えみりさんが本気になれば、料理なんてちょろい」 世界中の主婦の皆さん、ごめんなさい。 私は料理好きな方だけど、苦労なさっている方もいるんですものね。 えみりは確かに料理の才能がある。というか、磨かれてきた。でも、まだ自慢するには早いのよ。上には上がいるんですからね! まぁ、えみりなりの冗談だとは思うけど。笑えない冗談だって、あるんですからね。 頼子だって、 「私には料理の才能ないんだぁ」 って嘆いていたし。 そうだ。えみりは頼子にだけは悪いと思わなければならないはずよ。 「頼子はね、料理に苦手意識持ってるの」 「誰それ」 「私の友達。何度か会ったことあるでしょお? 頼子の前でだけは、そんな暴言吐かないでちょうだい。たかだか味噌汁や簡単な料理が作れるようになったぐらいで、ちょろいなんて威張らないで」 わかったわよぉ……と、えみりは大人しく引き下がった。……あれ? 何だかやけに素直になってきたじゃないの。 おっとどっこい生きている 124 BACK/HOME |