おっとどっこい生きている
121
「ねぇ、パパ。まきの猫、どこ?」
 まき、と言うのは、この女の子の名前だろう。
 フクを引き取りに来たのだろうか。この父娘は。
 さぞかしリョウが反対するだろう。
「ああ。すみません。私は上原章二。こっちは娘の真紀。よろしく」
「あ……はい。よろしく」
 私は上原さんから名刺を受け取った。
「ねぇ、パパ、猫いないよ」
「ああ、そりゃ、せっついても悪いだろう? 真紀、大人しくしなさい」
 上原さんが娘を窘めた。
「ここでいいんですよね。秋野さん」
「は……はい」
「娘が猫をどうしても飼いたいというもので――電話でアポイントメント取ってからの方が良かったですか?」
「ああ、それは……どちらでも」
 そこで、私はあることに気がついた。
「あの……奥さんは?」
「ああ、三年前に他界してしまいましてね。……真紀にも随分寂しい思いをさせてしまいました」
 そっかぁ……。悪いこと訊いてしまったな。
「でも、私には真紀がいましたから助かりました。だから、真紀の願いはできるだけ叶えてやりたいと思うのですが……」
 そんな事情があるなら、うっかり、
『フクはもうリョウの猫です』
 なんて言えないじゃない。
 でも、リョウは駄々をこねるかもな――。
 そんなことを考えていると――。
「あら、お客さん?」
 えみりが顔を出した。
「フクを引き取りたいって」
「まぁ、フクを……」
 えみりの顔が曇った。
「まきが欲しいのは、お洋服じゃなくて、猫なの!」
 真紀ちゃんは勘違いしたようだった。私はつい吹き出した。
「ああ、『フク』っていうのは、猫の名前よ」
「ふうん……」
「ちょっと待っててね。リョウ、リョウー!」
 私はリョウを呼んだ。
「んだよー」
 と言いながら、フクと一緒に玄関に現われた。『黄金のラズベリー』の原稿を持っていないところを見ると、どこかに置いてきたらしい。
「あ、まきの猫!」
 と、真紀ちゃんが嬉しそうに声を弾ませた。
「あーん。何だ? この子」
 リョウは訝しげな表情をした。
「それ、まきの猫でしょ?」
「違うな」
 リョウは一言で否定した。
「これはオレのフクだ」
「フクちゃん、まきのー!」
「それはどっか別のフクだろ? これはオレのフクなの!」
 大人げないわよ、リョウ……。
「う……」
 ほら、真紀ちゃん泣いちゃいそう……。
「うわーん!」
 ほら、泣いた。
「リョウ……アンタのせいでこの子泣いちゃったじゃない」
 えみりが怒気を孕んだ声で言う。
「ああ……ほらほら。真紀ちゃん、いい子いい子。ちょっとリョウ! あんた、相手は子供なのよ!」
 私はぐずる真紀ちゃんの頭を撫でた。
「お……オレのせい?」
 リョウもちょっと動揺しているようだった。
「ポスターを見てこの家に来たんだが……」
 そうそう。私達、フクの面倒見てくれる人探しにポスター作ったのよね。
 ポスターを見て来たんじゃ、無碍に追い出すわけにもいかないし……。
「これはお兄ちゃんの猫なの! 泣けば済むと思ったら大間違いだからな!」
「リョウ、あんた少し黙ってなさい」
 私が睨むと、リョウは口を噤んだ。そして、何か考え込むように、唇を噛んだ。
 私は、視線を上原親子に戻した。
「真紀……本当にこの猫がいいんだね?」
「うん……まき、この猫がいい」
「でも、この猫を既に可愛がっている人もいるんだよ。それでも欲しいかい?」
 真紀ちゃんはこっくり頷いた。
「まき、フクちゃんがいい」
「――他にも、可愛い猫はたくさんいるよ」
「でも、まき、フクがいい!」
 まきちゃんはフクを指さした。
 フクは、人の気も知らぬげに、
「にゃあーお」
 と、暢気に長い声で泣いた。
「フク……」
 リョウが、悲しげな声でフクの名を呼んだ。
「ねぇ、上原さんも言ってたけど、もっと可愛い猫はいるわよ。だから、フクのことは諦めてちょうだい。ね?」
「やだ!」
「そうですねぇ――人手に渡るのが嫌なら、あんなポスター作らなければいいんですよ」
 上原さんは、ちょっと苛々しているような口調だ。
 そうだよねぇ……あんなポスター作っておいて、実は手放せませんじゃ、詐欺まがいよね……。
「で、いくら欲しいんですか?」
「え?」
「この猫を買うことにしました。いくら欲しいんですか?」
「そんな……オレ達金が欲しいわけじゃ……」
「そうだよ、パパ。まき、『お金で何でも解決するわけじゃありません』って、先生にゆわれたよ」
 あら、まきちゃんの方が大人だわ。
「じゃあさ、こうしようか、お嬢ちゃん」
 リョウは真紀ちゃんに近付いて行って、フクを目の前に差し出した。
「な……なに……?」
「オレと一緒にフクを可愛がろう」
「何言ってるんですか? 貴方は」
 上原さんは不審げだ。
「いいの?!」
「ああ、いいとも。おじさん、うちこの辺でしたっけ?」
「そうですが……」
「それだったら、いつでもこの家に遊びにいらっしゃい。俺はいなくても、フクはいるからね」
 ――優しいお姉さんもいるわよ、とえみりが付け足した。えみりが言うのは、にわか学生ベビーシッターのことだろうか。

おっとどっこい生きている 122
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