おっとどっこい生きている
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「ご用件は何でしょうか? 教頭先生」
 頼子は意地の悪い他人行儀な態度で、実の親を射竦めていた。
 尤も、これしきのことで動じる松下先生ではない。
「まず、秋野の方が先だ。秋野。もう猫を学校に連れて来るなよ」
 連れてきたのはリョウなんですが……。
「はーい。松下先生、誤解してまーっす」
 河野先生の席に陣取って、ごろごろと喉を鳴らすフクを撫でながら、リョウは手を上げた。
「連れてきたの、オレでーす。秋野関係ありませーん」
「そうか……しかし、同居してるんだろう?」
「オレの行動は、多分秋野も見抜けなかったと思いまーす」
「そうか……じゃあ鷺坂、おまえ、猫を学校に連れてくるな」
「いやでーす」
 なっ、アンタ先生に口応えなんて、なんてことをっ!
「オレとフクとは一心同体なのです。フクと離れて暮らすなんてこと、できませーん」
 いや、アンタがそう思っても、フクにとってそれはどうかと思うわよ。……フクも慣れてきたみたいだけど。
「えーい! 学校は遊びに来るところじゃない! 勉強する場なんだ!」
 田村先生が怒鳴る。私もそう思う。
「俺も田村先生に同感だ」
 あれ? 松下先生が『私』ではなく、『俺』って言ってる。
(頼子……松下先生って、私的な場所じゃ『俺』って言うの?)
(そうだけど、なんかおかしい?) 
 私達はひそひそ声で話す。
(いや……)
 やはり頼子は、家での教頭先生――松下先生のことを知っているんだなぁ、と思った。
「松下先生! ごめんなさい! リョウに猫、連れて来ないように言っておきます」
「ふむ……まぁ、わかればいいんだ」
「えーっ?! そんなのってないよ」
「お黙り!」
 私は一言の注意でリョウを黙らせてやった。
「私の注意がきけないんだったら――フクはどこかにやってしまうわよ」
「ひえっ! それだけはやめてくれぇっ!」
 だって、仕方がないもんね。
「アンタらの力関係がよぉーっくわかったわ」
 頼子が呆れたように言う。
「で? 教頭先生。私まで呼んだ意味とは?」
「うむ……実はな……」
 松下先生は、言いにくそうに咳払いをしている。何だろう。何か重大発表でもあるんだろうか。
「勿体ぶらないで教えてください」
 頼子の慇懃無礼は続く。
「では言うけれど……私の家でも、猫を飼う予定を立てたから」
「えっ……?」
 頼子は驚きで絶句した。
 だって、堅物で有名の松下先生が(その実生徒が危機に陥ると、自分の仕事ほっぽってその子の力になるが)、たった一言、
『猫を飼う』
 と言う為だけに、一応生徒である娘を呼びつけるとは思わないもの。
 けれど……その言葉は頼子を感動させるには充分だった。
「ほんと?! ほんとに猫飼っていいの? お父さん!」
 あら。『教頭先生』から『お父さん』になってるよ、この人。
「そうだよ。頼子、ずっと飼いたかっただろ?」
「う……うん。でも……」
「城陽に落ちたことは、もう気にしなくていいから」
「やだ……気付いてたの?」
 そう。猫を好きな頼子が猫を飼えない原因。それは、城陽高校に落ちたことにあったのだ。
『何で猫飼わないの?』
 と、私は訊いたことがあるが、その時、頼子は言ったのだ。
『私は……城陽に落ちたから』
 だから、勉強に身を入れようとしたのだろう。時々原稿書いて憂さを晴らしながら。猫のことも忘れて。
 城陽に落ちたから、せめてもの見返しをしてやろうと言うのであろう。頼子は、学校ではものすごく熱心に勉強している。
 試験勉強の時は……まぁ、私達のペースにハマってしまうが。でも、みんな最後は真面目に勉強するから。
 でも城陽に落ちたことが、頼子の心の澱になっていたことはみんなわかっていた。だから、みんな頼子の目の前では、城陽のことを滅多に口にしない。
 頼子は……嬉しそうだった!
 頬は紅潮し、瞳は輝き、城陽のことを話題に出されても、怒らないし気にしない。成長したもんだと思う。
「みどりー、猫、飼えるんだよー、家で!」
「良かったね、良かったね、頼子!」
 私達はきゃあきゃあと喜び合った。手に手を取って。
「リョウ、ありがとう! アンタのおかげよ!」
「えっ?! そりゃどうも……」
 頼子のお礼に、リョウは些か驚いたようだった。
 良かったね、頼子。
 城陽高校の呪縛から解放されて。
 今のアンタ、すごく綺麗よ。
「猫には、何て名前つけるの?」
「うーん。ミヤコかなぁ」
 伊勢物語か。さすがね、頼子。
 ん? でも、ミヤコって鳥だったような……。
 私が訊くと、
「私が好きな漫画にね、『自由人HERO』っていうのがあるの。そこに出て来るチョイ役のキャラ。私大好きなの!」
 頼子……アンタが柴田亜美フリークなのはよくわかったから。
「それに、猫って、『ミャー』と鳴くでしょ?」
 そうとも限らないような気がするんだけど……。
「だから『ミヤコ』ね! 決定!」
 頼子は何となく、躁状態になっているらしかった。
 松下先生は、複雑そうな顔つきで見ていた。
 わかるなぁ。先生の気持ち。
 ここまで喜ぶんだったらもっと早くに言い出すべきだった、という気持ちと、ちょっとはしゃぎ過ぎではないかという気持ち。
 私だって、少し心配になってきたもん。
「ミヤコの面倒は私がみるわね。ありがとう、お父さん!」
「……いやいや、どういたしまして」
 頼子に対して、松下先生は苦笑しながら答えた。
 だけどね……頼子が練っている計画、今の時点で知っていたならば、私、一緒に素直に喜べたかどうかわからない。
 頼子は……親友だもの。
 嬉しい時は一緒に喜んであげるのが筋ってもんじゃない?
 少なくとも、この時頼子は、私に対して抱いている敵愾心を忘れていたと思うの。
 そう。敵愾心。頼子がずっと私に持っていたもの。
 けれど――この時の頼子は無邪気で……私も無邪気で……だから、頼子の本来持っている嫉妬深さとか、意地悪さ、なんてものについては失念していたの。
 あっ、携帯が鳴った。
 私は職員室を出る。
『ハロー。みどりさん。何か変わったことない?』
 しおりからだ。私は猫騒ぎを簡潔にまとめてメールに書いて送った。
 ああ、いい気分。外では青空が広がっていて、気持ちの良い風が吹いていることだろう。

おっとどっこい生きている 119
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