おっとどっこい生きている
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 気がつくと、白い天井だった。
「あ……」
 私は倒れたのだ。風紀委員会の副委員長として、取り締まりをしている途中に――。
 戻らなければ。今何時だろ。
 げっ! 九時五分!
 もう! どうしてみんな起こさないのよぉ。よりによって大塚のリーダーの時間じゃん。
「秋野さん?」
 保健室のお姉さん先生だ。若いがなかなかしっかりしている。私達とそう年も違わないだろう。
 名前は……そうだ。荒井由美だ。ユーミンの若い頃の名前だから、よく覚えている。私はどっちかっていうと、原由子の方が好きだけどね。
「起きられる?」
「はいあの……」
 私はちょっと口ごもった。荒井先生は、私が口を開くのを待っている。
 急にめらめらと怒りが湧いて来た。もちろん、荒井先生関係なしに。
「あの馬鹿はどこにいますか……!」
「え?」
「リョウの馬鹿はどこにいるかって訊いてるんです〜!」
 私は地獄の底から這いずって来たようなどすの効いた声で、荒井先生に向かって言った。こんな声が出るなんて、自分でびっくりしている。
 先生はさすがに動じない。
「リョウくんの猫はね……職員室にあずかることになったわ」
「そう。フクのことはそれでいいわ。でも、あのリョウのタコ、一発殴ってやらないと気が収まらないんです〜!」
「秋野さん。落ち着いてね」
 本当なら、こんな優しくて美人の荒井先生を困らせたくない。でも……もう限界だった。
「私が教室に行きます。どうせそこにいるんでしょうから」
「秋野さん、無理しないで」
「無理しないで怒ってるんですよ!」
 あ、これじゃ押し問答だわ……。
 いかんなぁ……先生には敬意を払えって全校集会で偉そうにのたまった私が、まず荒井先生に敬意を表していない。
 私は、起きていたのだがまたベッドに横になった。
「秋野さん、疲れてない?」
 荒井先生が心配そうに覗き込む。
 疲れてる? 私が?
 冗談じゃない! 疲れている暇なんてありゃしない。
 でも……そういえば、この間も倒れたしな……。
「この間のこと、リョウ君に聞いたわ。あなた、無理してるんじゃないかって」
 ふぅん。リョウも一応私の体には気を配っているわけか。何かそれって、嬉しいな。へへ。
 あ、もちろん、本人には言わないわ。優しくするとつけ上がるから――『パームシリーズ』のアンジェラじゃないけど。
 前にも意識が遠くなったことがあって――それから、私には気絶グセがついたのかもしれない。やなクセだ。
「ねぇ、秋野さん。今の生活、プレッシャーになってるんじゃない? 私も話は聞いてるわ」
「とんでもない! かえって楽しいぐらいで!」
 ほんとに楽しいのだ。
「楽し過ぎるんじゃない?」
「ええ。それはもう!」
 私は力説した。
「これもリョウくんから聞いたんだけど……渡辺純也くんていう子が病気になったって……」
「は? でも、大したことはないようですし……」
「ねぇ、秋野さん」
 荒井先生の顔が険しくなった。
「今の生活、重荷になっていない?」
「は?」
 私は、今度こそ、口をぽかんと開けたまま固まった。
「立ち入ったこと話して、ごめんなさいね。けれど、ご両親も今いらっしゃらないし、知らない人ばかりで……」
「私は平気です!」
 私はがばっと起き上った。
 荒井先生が、狂人か何かを見ているような目でこっちを見ている――というのは言い過ぎか。
「私、今の生活が気に入っています」
「そう……一度ご両親と話をしてみたら?」
「そうします。来週の月曜、両親が帰ってきますから。その……休暇で。月曜日から金曜日まで」
「助かるわ」
 荒井先生がにっこりと笑った。
 真っ赤なルージュをつけているんじゃないかと思われる赤い唇。でも、それは彼女の自然な唇の色だってはっきりわかる。
 色っぽいので、男子生徒には大ウケだ。
 けれど、女子生徒にも人気がある。性格のせいかもしれない。ちょっとずけずけ言いのところはあるけど……。
「でもね、秋野さん。他人と暮らすのって、案外大変なものよ。私も経験したからわかるけど」
「うちは大丈夫です。言いたいこといっぱい言ってますから」
「それで、傷つくということはないの?」
 私は言葉に詰まった。
 確かに、私が傷ついたり、反対に傷つけたりしたことがないとは言えない。だって、共同生活だもん、いろいろあるさぁ。問題がないとは言えないし。
 それでも、私達、家族やってきたんだ。お父さんやお母さんの知らないところで。
 あの人達は、私の家族だ。大切な、家族だ。
 えみりも、雄也も、哲郎も、純也も、リョウも、ついでに兄貴も――
 おっとどっこい、家族をやってきたんだよ。
 やだ……泣けてきた。どうしてだろう。気が緩むと、泣けてくるんだよね。私。
「あ……ごめんなさい。あなたを泣かせるつもりじゃなかったのよ」
「はい……先生のせいじゃありません」
 私は制服の袖で涙を拭いた。
「これ、使って」
 荒井先生がいい匂いのするハンカチを差し出す。私はハンカチの形が崩れないように、丁寧に目元を拭いた。
「ありがとう……ございます」
「今は、もういいから寝てなさい。大塚先生には、私から出席扱いさせてもらうように言うから」
 はん、果たして上手くいくかな?
 反動で、私は荒井先生に対して少し生意気な感想を持った。
 規則を縦に取られたら終わりだよ? それでなくても、大塚先生は私のこと、嫌いみたいだし。
 うーん。でも、荒井先生の言うことだったら聞くかなぁ。荒井先生、美人だし、押し出しが強いし――どうなるだろう。これはみものだわ。
 何だか、他人事のように思えてしまう……。
 眠くないけど、保健室の天井のシミを見つめる。あれ、よく人の顔に見えるんだよねぇ……。
 授業時間が終わると、私は職員室の方に走って行った。
 やっぱりリョウとフクがいた。
 それから、何人かの生徒達――
「わー、かわいいー」
「触らせてー」
「俺、フクと一緒にいる時が一番幸せなんだよなぁ」
 リョウは猫に頬ずりした。
「あ、リョウずるい!」
「猫好きなの? アンタ。だったら飼えばいいじゃん。俺とフクは一心同体でもう愛し合っちゃっているんだからなー」
「うち、アパートで猫飼えないもん」
 先生方は、コーヒーを飲みながら談笑している。
「いや、うちの家族はネコキチでね……三匹は飼ってますよ」
「ほう、羨ましいですな。それで、河野先生の方は?」
「いやあ、私は犬の方が好きなもんで……」
 ああ、精神的に頭痛がする……これが学校でなされる話題か……。社交場かっつーの。全く。どいつもこいつも緊迫感なさ過ぎ!

おっとどっこい生きている 117
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