おっとどっこい生きている
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「秋野先輩」
 呼ばれて私は振り向いた。
「なあに?」
「そのう……井坂先輩が見当たらないんですが……」
 井坂先輩は、風紀委員会の委員長だ。そういえば、私も見てないなぁ……。
「わかった。探して来る」
 井坂先輩は三年九組だったわよね……。私は井坂先輩のクラスに行くと、まだそんなに集まっていない人達に声をかけた。
「あのう、井坂先輩いらっしゃいませんか?」
「あー、アンタ、秋野みどりじゃん」
 先輩の一人が私を指差した。人を指差すなんて、無礼な人ね。私はちょっとムッとした。
「ほんとだぁ」
「将人探しに来たの?」
「クラス違うじゃん」
「だから、井坂先輩に会いに……」
「え? 井坂来てないの? 今日。ラッキー」
「おまえなぁ……井坂って結構美人だよなって言ったの誰だよ」
「おーう。通好みだね」
「違うよ、あれは……」
 何だか、私の知らないことで盛り上がってる。井坂先輩はいないようなので、私は踵を返した。
 第ニ美術室の扉が開いていた。
 何気なしに私はそこを覗いてみる。
 井坂先輩の綺麗な横顔があった。
「井坂せ……」
『井坂先輩』……と呼びかけようとして、私は思い止まった。
 井坂先輩は何かをじっと見つめている。写真みたいだ。先輩は震えている。
 どうしたんだろう。そう思った時だった。
 六月の、朝の日差しに包まれて。やおら、先輩は写真に――。
 何と写真にキスしたのだ!
 ええっ!
 あの井坂先輩が?!
 好きな人いたの?!
 あたしの中ではクエスチョンマークとエクスクラメーションマークが頭の中で同時に飛び交った。
 でも、井坂先輩も恋をするんだぁ……。
 これは私の胸先三寸に納めておこう。私はその場を離れた。
「あ、秋野先輩。井坂先輩は?」
「もうじき来るって」
「そうですか」
 相手は明らかにほっとしたようだった。
 井坂先輩は、結構慕われてるんだなぁ、と、私は思った。
 まぁ、ずけずけ言いだけど、後輩には優しいしね。それに……。
 ああ、いやだ。顔が自然とにやけてしまう。
 井坂先輩は恋をしているのだ。
 こんなこと知ってるのは、ごくわずかな人達だろう。クラスメートでさえ知らなかったようだもの。
 けれど、あの写真。誰かしら。気になるなぁ……。
 井坂先輩のハートを射止めた相手なら、よっぽどいい男に違いないわね。それともゲテモノ食いってこともあるかもしれない。
 井坂先輩を美人だと言った人。あの人なんかもいいかもしれないわねぇ。
「秋野先輩……どうしたんですか?」
「ううん。何でもないの?」
 私は上機嫌で取り締まりに戻った。
「すみません、遅くなりました」
 しばらくしてから、井坂先輩が校門に来た。
「あら、秋野さん、おはよう」
「……おはようございます」
「――あら? 今日は様子が変よ」
 ええっ?! 変?! もしかしてバレた?!
「何でもありません」
「そう。何にせよ笑顔はいいことだわ。私もあなたの笑顔、好きだわ」
 井坂先輩は嬉しいことを言ってくれる。
 先輩の秘密を握ったから機嫌がいいんだなんて言えないわね……。何だか、先輩に申し訳ない気分になった。
 ごめんなさい、先輩……。
 でも、先輩も恋してるなら、私の気持ちもわかってくれるわよね。
「ねぇ、先輩。私達、少し厳し過ぎなかった? 今まで」
「そうかしら?」
「恋愛に関しても、おしゃれに関しても」
「そんなことはないわ!」
 井坂先輩は勢いよく反駁した。
 しまった……藪蛇だったか……。
「おっ! あれは何だ?!」
 風紀委員会の佐々原先生が驚きの声を上げた。
 鳥だ! 飛行機だ! スーパーマンだ!
 というのは古過ぎるか……。頼子のおかげで私も変なことを知るようになったなぁ……。
 頼子ってほんとはいくつなんだろう……長い付き合いの私にもわからないことがある。昭和三十年代の生まれと言われても私は驚かないぞ。
 もちろん、やって来たのは鳥でも、飛行機でも、スーパーマンでもなく……。
 リョウ!
 私は思わず叫びをあげそうになった。
 リョウ単体だったら、いくら何でも私も驚かない。しかし……。
 リョウはフクを抱いていた。
 リョウが猫のフクを抱いて学校に来ている。私は気が遠くなりそうになった。
 貧血かしら……今日の朝ごはん、あまりレパートリー少なかったからなぁ……。
 卵かけご飯。私は卵を兄貴達にあげてしまったからなぁ。ああ、卵かけご飯が食べたい……。
 納豆も栄養あるのよね、確か。
 でも、私も兄貴もあんまり好きでないので、食卓には滅多に上らない。えみりもそれについては何も言わないから、きっとえみりも苦手なのだろう。
 ただ、いつだったか雄也が、
「オレ、もっと納豆が食いたいよ」
 と言っていた。それを無視した天罰が下ったのか……。
 ごめん、雄也。私、もっと納豆食べさせてあげるからね。
「どうしたの? 秋野さん」
 井坂先輩の声に私は、はっと正気に返った。
「リョウ!」
「鷺坂さんのことね」
 私はぶんぶんと首を縦に何度も振った。おかげで目が回った。
「鷺坂さん。あなた、学校ではペットは禁止よ」
「わかってます。わけがあるんです」
「わけ?」
「純也くんという生後三か月の赤ちゃんが、病気になりまして……」
「ふんふん」
「で、その赤ちゃんのお父さんが猫を近付けさせたくないようなので。どうせだから学校に連れてきちゃえ、と思ったんです。あ、この猫フクって言うんですよ。カワイイでしょ」
 その脳天気な答えを聞いて……。私はふっとめまいを感じた。
「大丈夫? 秋野さん、ねぇ! さっきまであんなに元気だったじゃない!」
 井坂先輩の言葉が遠くに響いた。

おっとどっこい生きている 116
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