おっとどっこい生きている
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「オレは反対だ」
 雄也がうめくように言った。
「えみりは成績だってそう悪くないのに」
 へぇ……じゃあ、えみりが辞めたいのって、成績不振が原因ではないんだ。
「休学届を出せばいいんじゃない?」
 哲郎が提案する。
「それも考えた。でもね――」
 そこでえみり、間を置く。
「アタシ、勉強より純也の世話を見てる方がいいの。それにね――」
「それに?」
「アタシ、専業主婦に憧れてたの。ちょっと早いけど、夢が叶うってわけね」
 えみりがにっこりと笑った。
「でも、えみりが大学に行かなくなると、寂しくなるな――」
 雄也がぽつんと呟いた。それが本音なのかもしれなかった。
「何だよ。しけた顔して。俺がいるじゃないか」
 そう言って、兄貴が雄也の肩を抱く。雄也は振り払った。
「俺の体に触れるのは女だけって決まってんだよ」
「そうかぁ? いつもやってることじゃん」
「今からそう決めたんだ」
 ――雄也は拗ねていた。
 電話のベルが鳴った。
 兄貴が取りに行く。
 しばらくして、兄貴から
「おーい、みどり。電話だぞ」
 と、呼びかけられた。
「誰?」
「親父から」
 あ、そっか。すっかり忘れてた。今日の電話はまだ来てないんだった。
 或いは、私が教会に行ってる間に連絡が来たのかとも思ったんだけど。
「――もしもし、お父さん?」
「やぁ、みどり。声が聞きたかったよ。今、仕事が忙しくて」
 なんせ、今度の月曜には日本に帰らなくちゃならないからなぁ、と、お父さんは笑った。
「おまえに会うのを楽しみにしているよ」
「ありがと」
 えみりのことは言わない方がいいと思った。えみりは、自分で大学を辞めることに決めたのだし、それにうちのお父さんは関係がない。
 少なくとも、今は言わない。
 他愛ない話をした後、私は電話を切った。
「親父、元気そうだったろ。張り切ってるんだぜ」
 兄貴の言葉に、私は頷いた。
「土産が楽しみだな」
 トンガの土産って、どんなものだろう――私は考えたが、あの父のことだ。土産を忘れることも充分考えられる。
 まぁ、私はそんなものなくてもいいけど。
 ただ、お父さんとお母さんの元気な顔が見られれば。私は思った。
 まぁ、あの二人のことだ。いつもにこにこしているだろうけどね。
 常識外れだし、私達二人を置いて勝手に外国行っちゃうような親だけど、親は親なのよねぇ。
 雄也やえみりもいい親だけど、私達の親も、そんなに悪くないような気もする。
 雄也とえみりの親としての愛には、心打たれるものがあったけど。
 私達も結構愛されて育って来た。私はおばあちゃん子だったが。
 まぁ、うちのお父さんとお母さんの場合、どっかずれてる愛情なんだけどもね。それもまた良しかもしれない。
 雄也とえみりは兄貴達と一緒に話し合っている。やっぱり重要な問題だからね。
 私の出る幕はないと思い、部屋に引っ込んだ。
 携帯をチェックしたら、美和としおりからメールが届いていた。
「ハロー。みどりちゃん。英語進んでる? 大塚の攻撃に負けないでガンバ!」
 絵文字たっぷりのメールだ。英語か。英語のことも大塚のことも、すっかり忘れていた。学生失格?
 そう言えば、この間、太宰治の『人間失格』を読んだ。思わず泣きそうになった。あれは名作だと思う。悪口を言う人もいっぱいいるだろうけど。
 それから、しおりからだ。何だろ。
『みどりさあん。今日、しおりのうちにあの女狐が来たの。祈祷会に来たってんだけど、思わずしっしって追い出すところだったよ』
 こちらも絵文字いっぱいのメール。文面に私は失笑した。
『でもね。パパの手前、そんなことできないでしょ? だから、しおりも我慢した』
 まぁ、よく自分を抑えたわね。えらいえらい。
 しかし、冬美も教会行ったんだ……というか、神光教会にも、祈祷会ってあったのね。
 麻生もそれに出たんだ……思わず、聖書の放蕩息子の話を思い出す。
 死んでいたのが甦った……放蕩息子の父親も麻生牧師も、同じ心境だったかもしれない。
『それから、溝口先輩も来たよ』
 うんうん、それは良かったね。
『みどりさんもうち来ない? そのうちでいいから』
 そうだねぇ……どうしようかな。ただ遊びに行くだけなら、いいかもしれない。
 私は返事を送信した。だいぶ手慣れたものになってきている。絵文字の使い方もお手の物だ。打ち方も、そう遅くはないと思う。
 今日はいろいろあって疲れた……私も純也についていてあげようと思ったが、雄也とえみりに断られた。彼らなりに気を使ったのだろう。そんなことしなくてもいいのになぁ。
 英語はやめて、今日は寝よう。大塚先生に指されても構わない。来るなら来いだ。
 私はいささか投げやりになって、パジャマに着替えると、そのまま寝入ってしまった。もうその頃には純也のことをすっかり忘れていた。

 朝になった。
 私は夜、髪を洗わないと何となく収まりが悪い。昨日はそれどころではなかったから、朝シャンをした。おかげでえみりに、
「みどりだって朝シャンするんじゃん」
 と嫌味(?)を言われた。いっつも注意してるもんなぁ、私。えみりのことを。
 ま、いいけどさ。
「いいでしょ。別に」
 と返してやった。
 食卓にはいつもの面々が並ぶ。
 ご飯に味噌汁、ほうれん草のおひたし……朝シャンのせいで時間がなくなり、いつもより簡単な食事になってしまった。あ、あと、漬物もあったな。
 私はいそいそと冷蔵庫から漬物を出す。
「いっただっきまーす」
 みんなは口を揃えた。哲郎だけが、食前の祈りをしていた。
 哲郎は、押しつけがましいし、どうしようもないキリスト教おたくだけど……こういう祈りを欠かさない姿勢は見習わなくてはならないと思う。
 しかし、私はキリスト教と哲郎への反感から、わざと食前の祈りをしなかった。
 神に祈るのと、自分のお祖父ちゃんお祖母ちゃんに祈るのと、どうして同じだと思えないのだろう。
 偶像礼拝だって? そんな馬鹿な!
 お祖父ちゃんもお祖母ちゃんも、確かに昔は生きてたんだから! 偶像なんかじゃない!
 雄也とえみりは、目の下に隈を作っていた。もう若くないんだから、純也の世話も私に任せてさっさと寝たら良かったのに。変なところで気を使うんだから。しっかし、親って大変なんだなぁ……。昨日の一件でもわかったわ。
 でも、健康な体は健康な生活と健康な食事から! それだけは譲れない!
 今日は風紀委員会があるんだった。私はご飯をゆっくり食べ終えると、「ご馳走様」と言って自分の皿を洗う。
 この自分の皿を洗うというのは、めいめいに化した日課だった。夜は他の人の分も洗うけど(時々えみりも手伝ってくれる)。
 大学の先生は、きっとえみりを引き止めるだろうなぁ。
 でも、えみりはきかない筈。本気だっていうこと、伝わったから。
 純也の病気(というほどじゃないかもしれないけど)も手伝ったのかもしれない。
「えみりさん。今日家にいるわよね」
「いるわよ。当たり前でしょ? 純也が心配だもの」
 純也が治ったら、辞める手続きでもするのだろうか。或いは、大学に籍を置いたままにしておくのかもしれない。
 一晩寝たら、「あとはえみりに任せよう」という気持ちになった。えみりだって大人なんだから、子供の私が口を挟むことはない。

おっとどっこい生きている 115
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