おっとどっこい生きている
113
「哲郎サン……」
 リョウが哲郎の名前を呼ぶと、哲郎は、「ん?」と首を傾げた。
「オレ、出て行きます。こんなわからず屋達とはもう一緒に暮らしていけません」
「だから、待てって言ってるのに……」
 と、兄貴。
「オレが猫追い出すっつったら、リョウも、『自分も出て行く』って」
 雄也がきまり悪そうに告げる。
「ふうん。それは大変だね」
 哲郎が飄々と言う。
「リョウ……考え直して。――それに、アタシ達、ポスター作ってたじゃない」
 えみりの台詞に、
「ああ、あのポスターか!」
 と、雄也もぽんと手を叩いた。
「ああ、ポスターね……」
 リョウはまだ浮かない顔をしている。
「アタシ、あれでフクのこと可愛がってくれる飼い主が、他に現われてくれるんじゃないかと思うのよね。もちろん、前の飼い主でもいいけど」
「イヤだ!」
 その時、フクが通りかかった。
「にゃーん」
 この騒ぎを聞きつけたのだろう。確かに騒がしい。
「ああ、フク。俺と一緒に行こうな」
「ナー」
 リョウが抱きあげると、一瞬不満そうに鳴いたが、すぐに大人しくなった。リョウは、猫を抱くのが上手いのだ。
「なぁ、どうしてアンタ、フクにこだわるんだ?」
 兄貴が訊く。
「オレ……猫好きなんすよ。でも、今まで飼えたためしがねぇんだ」
「あら、どうして?」
 私も質問に入る。
「オヤジがさ……猫嫌いなんだよ。あの家では、いつもオヤジが一番だったから」
 へーえ、そんなこと、初めて聞いた。リョウってば、家族のこと、滅多に喋らないもんね。
「オレ……フク見た時、運命感じちゃったんだよ。これはオレの猫だって」
 運命感じた? 普通それは女性相手の時に使うフレーズじゃない?
 ……リョウはアブノーマルなのかしら。それとも、人間より猫の方が好きな種族なのかもしれない。
「オレが最初に拾ってきた猫に似てるんだ。フクは。でも、オヤジは捨ててこいって……」
 リョウの目元から大粒の涙がこぼれた。リョウ……。ちょっと理解しにくいけど、アンタ、フクを愛してるのね……。
「わかったわ」
 こういう時は私が仕切るに限る。私は前に出た。
「リョウもフクも、この家にいていい!」
「あ……秋野……」
「ただし、フクは、一ヶ月経っても飼おうという奇特な方が現われない場合に限ってのみだけど」
「やったー!」
 リョウはフクのことを高い高いしながら喜んだ。
「秋野、愛してるぜ! フクとえみりサンの次にな」
 はいはい、わかりましたよ。どうせ私は三番手よ。
「でも……」
「なぁに、雄也さん」
「みどり、純也のことはどうすんだ?」
「純也は大丈夫よ。雄也さんが気にしてるだけで」
「でも、オレ、心配なんだよ。誰もが留守の時に、フクが純也の上に乗っかったらって……純也、振り払うことできないだろ? 呼吸困難に陥るかも……」
 ふぅん。雄也って心配性ね。
「だから、オレとしちゃ、他に飼ってくれる人が見つかるといいんだけど……」
 私は肩を揺すった。
「雄也さん、大事なこと忘れてない?」
「大事なこと?」
「そう! この家は秋野弘樹、秋野美沙子夫婦のもので、すなわち秋野駿と、この私、秋野みどりのものなのよ!」
「うっ……!」
「だから、雄也さんは私達の決定には口を出せないってわけ。残念だったわね」
「くそ……」
「まぁ、自分の家ができたら、好きなようにしなさいな」
 私はほーっほっほっと高笑いした。
「みどり……おまえこそ大事なこと忘れてるぞ。まだ俺の決定を聞いてない」
 あっ、そっか。兄貴も一応秋野家の一員だものね。
「俺は……やっぱり反対なんだが……フクやリョウが駅前で雑魚寝するのかと思うと、寝ざめが悪いし……」
「兄貴……リョウをホームレス扱いしてるんじゃない?」
「いやいや。駿サンの言う通りだよ。オレ、ホームレスだもん」
「そうなの?!」
 私は思わず訊き返した。
「学校にはさ、何とか行ってっけど、オレ、あの家じゃ鬼っ子だもん」
 だから、駅にいようが、友達の家に泊ってこようが、あいつらには何の関係もないんだ、と――。私は泣きたくなった。リョウ……アンタ、辛かったね。
「ねぇ、兄貴。何とかなんない?」
「みどりにそう言われるとなぁ……」
 兄貴は唸りながら顎を掻いた。
「心配する必要ないわよ」
 えみりの言葉に、全員が彼女を注視した。
「だって、アタシ、学校やめるから」
 一瞬の、間。そして――。
「何だってー!」
 蜂の巣を突くような騒ぎ。
「そんなこと、おまえイッコも言ってなかったじゃねぇか!」
「うん、ごめんね、雄也」
「どうしてだい。純也くんとフクの面倒は今まで通り僕が見るよ」
「哲郎には、受験があるでしょ! 勉強しなくちゃだわよ!」
 と、えみりが元気良く励ました。
 えみりは大学を辞めることまで考えていたのか――と兄貴は呟いたが、やがて、仕方なさそうに首を振った。
「だって、アタシ勉強苦手だもの」
「でも、後一年足らずで卒業でしょ?」
 私も訊いてみる。せっかくの大学生活、どうして蹴ることができるのか。
「ほんとはねー、純也が生まれた時に辞めようかなと考えたこともあるんだけど。この際だから、すっぱり辞めちゃおうと思って」
「勿体ない……」
「みどりだって、アタシの立場になればわかるわよ」
「わかった。じゃあ俺は止めない。おまえもよく思案した上でのことだろうから」
 兄貴はいっそ清々しい顔だった。
「じゃあ、オレ! オレも高校辞める!」
「アンタは行きなさい!」
 えみりはぎろりとリョウの方を見た。
「何で……? えみりさんが辞めるなら俺も辞めるよ」
「駄目よ。高校は出とかなきゃ。私の友達に高校中退したコがいるの。頭は良かったんだけどねぇー……彼女が言うには、高校に通っているのといないのとでは、基盤となる学力が違うんですって」
「う……うん」
「それに、アンタ、学校生活は楽しいでしょ。青春だもの。うんと楽しまなきゃ」
 えみりは鮮やかなウィンクをした。リョウは照れたように下を見た。

おっとどっこい生きている 114
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