おっとどっこい生きている
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 突発性発疹症。それが純也につけられた病名だった。
「純也くんは生後三ヶ月でしたね」
 白衣の似合う有能そうな医師が雄也に訊く。一応確認といった感じか。
「はい!」
「この突発性発疹は生後三ヶ月辺りからそろそろかかりやすくなるんですよ。多分その病気だと思います。純也くんは早い方ですが」
「――治りますか?」
「養生していればすぐ治ります。幼児期に多い病気で、そんなに心配は要りません」
「良かったー」
 雄也はえみりと抱き合って喜んだ。兄貴もほっとしたようだった。
「一応合併症に注意してくださいね。薬ももらって行ってください。あと、水分もよく摂らせてあげて……」
「じゃあ、あの……入院なんかはしなくていいんですね?」
 我に返った雄也が遠慮がちに尋ねる。どうやらそれも覚悟していたらしい。
「大丈夫だと思いますよ。けれど、もし容体が変わるようならすぐ連れて来てください。それから、午前中か午後か、取り敢えず病院が開いている時間にちゃんともう一度診てもらって欲しいのですが」
「はいっ!」
 雄也とえみりが揃って返事をする。
「あの……先生?」
 私は懸念していたことを口にした。
「原因は……その、猫なんかでは」
「ああ。調べてみないとわかりませんが、違うと思いますよ」
 医者は拍子抜けするぐらいあっさりと答えた。
「この病気は家族からの水平感染であることが多いので。ただし、猫は遠ざけた方がいいでしょう」
 純也は、病院に来た時よりも元気そうに見えた。小さな手足を動かしている。
「もう家に連れて帰ってもいいですよ」
「はい! わかりました! ありがとうございます!」
 えみりが純也を抱き取った。雄也は何度も医者に頭を下げて礼を言った。兄貴も一緒にお辞儀をした。
 突発性発疹は熱が下がると同時に発疹が出る為、そうなったとしてもうろたえないように、と医者は注意もしてくれた。
 私はつねさんに、純也は突発性発疹のようだと報告をした。つねさんは、そうなの、と言っていた。
「うちの雄也も赤ん坊の時にかかった病気だわ。そうとわかったら安心ね」
 とも話していたから、割とポピュラーな病気なのだろう。
「さっきはついあなたに怒ってしまって悪かったわ。みどりさん。えみりさんには、私の台詞のこと、謝ってくださらない?」
「いいえ。動揺していたのだと思っていましたから、伝えておりません」
「そう――良かった」
 つねさんは、すっかり温かみのあるおばあちゃんに戻っていった。
「みどりさんにも気を使わせてしまって済まなかったわね」
「いいえ」
 目頭に涙が滲むのを感じた。
 純也くん――みんな、君のことを考えているんだよ。
 だから――早く良くなってね。
 私は、つねさんとの会話を終えると、携帯を切った。携帯はこんな時便利だ。
「お義母さん、何か言ってた?」
「突発性発疹だったら大丈夫だって。雄也さんもかかったことあるから」
「そう……」
 えみりはまた泣き始めた。うっ、えっ、としゃくり上げながら。
 気が張ってたのが、急に緩んだのだろう。私だって、その気持ちはわかる。
 でも――どうしよう。フクのこと。
 雄也は黙って運転している。
 フクのことでモメなきゃいいけど。リョウが、フクのことでそう簡単に引き下がるとは思えない。
 フク……。
 赤ちゃんの為には、猫は良くないかもしれない。
 リョウ、ごめんね。
 フクが純也くんの健康に悪影響を及ぼすとしたら、私は雄也達の側に着く。
 フクはここに来て何日かしか経ってないけど、純也は三ヶ月近くこの家にいるんだもの。やっぱり、どっちに情が湧いているかと言ったら――。
 やっぱり、純也の方なんだよね。
 えみりは純也の寝顔を覗いている。気にかけるように、そして――少し嬉しそうに。
「えみり」
 兄貴の声が聞こえて思わず私はびくっとした。呼ばれたのが私でなくても、考え事をしてたのだ。少しは驚く。
「純也のことは大丈夫だ。それに俺ら、今までだって何とかやってきたじゃないか」
「う……うん」
 えみりが答える。それを耳にしたのか、夜闇の中、車を動かして道路を駆け抜ける運転席の雄也が、兄貴にこう語りかけるのが聞こえてきた。
「なぁ、駿。こういう時、何ていうか知ってるか? おっとどっこい――」
 ――生きている。

 帰るとリョウが出迎えてくれた。
「お帰りー! 雄也サン! えみりサン! 駿サン! 純也無事? ――あ、秋野、いたんだ」
「――いて悪かったわね」
「何だよ。ただの軽口じゃねぇか。そんなに機嫌損ねんなよ」
「損ねてません!」
「おいおい。夫婦漫才やってる場合じゃねぇぞ」
 雄也が呆れ顔でつっこんだ。
「誰が秋野なんかと!」
「私には将人がいるのよ!」
「へいへい。でさ、リョウ」
「なんすか。雄也サン」
 先程のこともあるのだろう。リョウは、雄也に対して警戒の構えだ。
「言っとくけど、フクな――」
「わぁー! 聞きたくない聞きたくない!」
「リョウ……?」
 ちょっとリョウ、そんなに騒がないでよ。寝ている純也、起きちゃうじゃない。
「すまん!」
 雄也がリョウに謝った。
「へ?」
 耳に手を押し当てていたリョウ。彼は、驚いて両手をだらんと下げた。
「純也の今回の熱、俺のせいかもしれないんだ。だから、フクは悪くない」
「そ……そっすか」
「けど、それとこれとは別だ」
 雄也はびしっとリョウに人差し指をつきつけた。
「猫はこの家から追い出す」
「ちょっと待ってくださいよ! 雄也サン!」
「なぁ、秋野。何とか言えよ」
 何とか言えって言ったって……何と言葉を紡いだらいいかわからない。
「なぁ、駿サン、えみりサン」
 リョウは助けを求めている。
「リョウ……ごめんね。フクと純也とどっちが大切かと訊かれたら……私は純也と答えるわ。我が子なんですもの」
「駿サン!」
「すまない! リョウ! あのな……」
 兄貴が語を継ごうとする。だが皆まで聞かず、リョウは眦を上げて怒りの表情を見せた。
「そうか……わかったよ! 俺、この家出てく、フク連れて! どうせ前はストリートミュージシャンやって少しだけでも稼いでたんだ! フクは俺が育てる!」
「ま……待て」
 兄貴が止めようとする。その時だった。哲郎が現われたのは。馬面に笑顔を浮かべて。
「お帰りなさい。今、みんなに祈ってもらってたところだよ」

おっとどっこい生きている 113
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