おっとどっこい生きている
111
「純也くんが?!」
 思わず声が裏返ってしまった。
 教会へ行く時、純也くんのことを思い出したのは、虫の知らせだったのか……。
「どうしよう! ねぇみどり、純也は風邪ひとつひいたことのない元気な子だったのよ。それなのに……アタシ、どうしたらいいの?」
 動転して泣いているえみりの頭を私は撫でた。出会った時茶髪だった髪が黒くなりつつある。
「雄也さんには連絡した?」
「今来ると思う」
「じゃあ、もうすぐだね。――泣かないの。えみりはお母さんなんだからしっかりしなきゃ」
 私はえみりを慰める。
「うん。……わかった。みどり」
 えみりが鼻をくすんくすん言わせた。
 兄貴がえみりの後を追うようにやってきた。
「みどり、帰ったのか」
 兄貴は心なしか青ざめた顔をしている。
 私は人間、熱が出たとか、そういう場合以外、滅多に顔色が変わるもんじゃないと思ってたけど、今の兄貴見てると、そうでもないのかもね。
 ――そんなこと考えてる場合じゃなかった。
 もう九時をとっくに過ぎている。
「救急病院は?」
「ああ。だから、雄也が帰ったら行くことになってる」
 ――その時、息を切らせた雄也が走ってきた。
「純也は?」
 第一声がまずそれだった。
「雄也ー!」
 えみりは雄也に泣きながら抱きついた。
「雄也……純也ね、熱が九度もあるのよ。このまま死んじゃったらどうしよう。もし熱が四十度以上に上がってしまったら……」
「大丈夫だ。えみり。純也は強い子だから。さぁ、あの子を連れて来てくれ」
「……わかった」
 えみりは一旦部屋に引っ込むと、ぐったりとした純也を抱えて戻ってきた。顔が赤い。
 私は純也の額に手をやった。かなり熱い。
「さあ行こう。病院に」
 雄也が促した。
「みどりも来て」
 えみりが心細そうな顔を向けた。
「もちろんよ」
 私は頷いた。
 リョウが駆けつけてきた。
「雄也サン、えみりサン……」
 それ以上、リョウには言うことがなくなったみたいだった。
「リョウ……」
 不機嫌な声――というより、怒りを込めた声を雄也は出した。
「純也がこうなったのは、フクの責任もあるんじゃないのか?」
「んなことないっすよ」
「猫は衛生によくないと聞いたぞ」
「たまたまっすよ」
「フクのことはいいじゃないか。今はそれどころじゃない。純也を病院に連れてけ」
 兄貴が二人を止めに入った。
 兄貴、真剣に純也のことを心配してる……数か月前では考えられなかったことだ。兄貴は赤ん坊嫌いだったから。
「そうだな。駿、おまえはどうする?」
「一緒に行くよ。おまえらだけだと心配だ」
「何だと?! この!」
 雄也が兄貴をぶつ真似をする。じゃれ合ってる場合でもないでしょうに。
「駿ちゃんも来てくれると助かるわ」
「おう!」
 兄貴は快諾した。やっぱり一緒に暮らしてると情が移るもんなのかしら。
「じゃ、リョウと哲郎は留守番しててくれ。何かあったら連絡する」
「純也……早く良くなれよ」
 心配そうな顔でリョウが離れたところから赤ん坊を見つめる。
「僕、一生懸命祈るからね」
 哲郎が真顔で誓った。
「よし! とりあえず急ごう」
 ――純也は苦しそうだった。
 この夜のことはずっと忘れない。
 雄也は急いでここで一番近くの救急病院へと運転していく。
 純也の息が荒い。えみりは、タオルで純也の汗を拭いていた。
 この二人。雄也もえみりも本当に純也のこと愛してるんだ……。最初は見た目にぎょっとしたけど、とてもいい親だ。
 少なくとも、真面目ぶっているよりはずっといい。
 あら、哲郎のことじゃないのよ。ほんとよ(こういうのを語るに落ちる、と言うんだろうな。まぁ、哲郎の美点もわかるけどね)。
 優しくて、理想的な親だ。うちの親と交換したいぐらいだ。
 なんせ、うちの親は兄貴と私を置いてトンガへ行ってしまう夫婦だ。私達、よくぐれなかったと思うよ。
「みどり。雄也の家に電話して」
「ええ?! 今はまだそこまでしなくても。もう夜だし」
「いいから!」
 えみりが物のごちゃごちゃ入っているバッグから携帯を取り出して私に押し付ける。
「だったら……えみりの家族にも連絡した方がいいんじゃない?」
「あの人達は……いいのよ」
 そう言った後、えみりが唇を噛んだ。
 そういえば、えみりの家族のことを聞いたことがない。
 話を振っても、わざと話題を逸らしてしまう。友達とかのことはよく話すのになぁ……。
 私が知っているのは、えみりが意外と(と言っては失礼か)いいとこのお嬢さんであることと、小林と言う旧姓だけ。
「いつから熱があったの?」
「わかんない。リョウはフクに夢中だったし。でも、お乳を飲ませようと抱いてみたら、熱かった」
 えみりは愛しそうな、悲しそうな目で我が子を見ている。
 私は電話することにした。
「――あ、渡辺さんのお宅ですか? 秋野ですけど……つねさん、みどりです。先日はどうもありがとうございました」
「社交辞令はいいから」
 焦っているえみりが私を肘でつつきながら小声で話す。
「はい。実は純也くんが……はい。かなりの高熱で。今病院に向かっているところですが……ええ。三十九度です……長引くようならまた連絡します。はい、はい。え? そんなに心配するほどのことじゃないと思いますが……」
 つねさんもかなり気にかかるようだ。
「熱はそんなに続いていないと思います。はい。そういえば、ゆうべは夜泣きがひどかったと言ってましたが……」
 夜泣きは、予兆であったのかもしれなかった。その頃はまだ異常はなかったと思うのだが。
「ええ、ええ。いえ、そんなことはありません。また連絡します。では」
「お義母さん、何だって?」
 えみりが訊く。
「……純也くんのこと、心配だって」
 えみりには知らせることができなかった。やはり母親が若いと、いろいろと不手際があるのね。そこまでひどくなる前にどうして医者にかからなかったの――と言っていたとは。
 つねさんも、いろいろ複雑なんだろうな。一度は和解したと思っていたのに。
 えみりにだって大学生活とかあるんだから、いつも一緒にいるというわけにはいかないのだ。そこのところ、理解して欲しい。哲郎は家にいるけど、浪人生だし。
 車が病院に着いた。純也を大事に抱きあげたえみりから降りる。その次が私。
 純也……がんばってね。ママがついてるからね、と、励ますようにえみりが純也に話しかけた。
 えみりが自分で『ママ』と呼ぶのは珍しい。もしかして初めてだったんじゃないだろうか。

おっとどっこい生きている 112
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