おっとどっこい生きている その部屋には、哲郎がいた。さっき、適当に「ただいま」と挨拶してきた。 私は蝋燭に火を灯し、線香をあげた。香の匂いが辺りに立ち込める。 日常の一部になった動作である。昨日も今朝も、食事の前後に、線香をあげて、手を合わせ、小さな食器にご飯をよそおった。 (おじいちゃん、おばあちゃん、ただいま帰りました。今日も、天国で元気で暮らしてください) 私は目をつぶりながら、頭を低く垂れた。そして、鐘を鳴らした。 普段なら、わざわざこんなこと書くことはしないのだが、今回は、特別だった。哲郎がいたからである。 「みどりくん。君は、仏壇に手を合わせるのかい?」 哲郎は、さも奇異なものを見たように、口元を歪ませる。 「ええ。そうよ。あなただって、ご先祖様に手を合わせるでしょ?」 私は何気なく言ったが、その後、哲郎がクリスチャンだったことを思い出して、ひやりとした。 「もしかして……哲郎さん、しないの?」 「ん。まぁ……」 哲郎は、きまり悪げに頬を掻いた。 「墓参りぐらいは行くけど……」 「へぇ〜。哲郎さんは、お酒は飲むけど、仏壇には手を合わせないのね」 私は嫌味を込めて、そう言ってやった。 「うん。まぁ、僕は、あまり真面目じゃないクリスチャンだけど、そんな小さな箱にみどりくんのご先祖様の魂がいないのは確かだと思うね」 「まあ!」 私は思わず大声をあげてしまった。 「だって、仏壇や位牌は、うちのおじいちゃんとおばあちゃんの記念碑よ! 誠意を持って大事にするのが当然じゃない?!」 「僕達は、それを偶像礼拝と呼んでいるんだよ」 「信じられない!」 なんだか、祖父と祖母を侮辱されたような気がして、腹が立った。 「そしたら、クリスチャンなんかはどうなの?!」 「教会に行ってお祈りするんだよ。それから、これは、昨日から考えていたことだけど……」 哲郎は鼻の頭をこすった。目が澄んでいる。 「みどりくん、今度の日曜日、一緒に教会行かないかい?」 「へ?」 唐突な展開に私はついていけず、目を丸くして、間抜けな声を出してしまった。 「秋野くんは、のらりくらりとかわすだけで、なかなか教会に来てくれないんだ。妹の君が来てくれたら、一緒に来ると思うよ」 「な……なんてことッ! それって、私を利用するってことよね?」 「……まぁ、それだけでもないんだけど」 哲郎は私を見た。その綺麗な目に、私は思わずどきっとした。 「……わかったわ。でも、その代わり条件があるんだけど」 「なんだい?」 「渡辺夫妻も、教会に行くこと、OKしたら、行ってもいいわよ」 哲郎が困った顔をした。やはり、難しいようね。 「よし。伝道のいい機会だ。改めて渡辺くん達にも話してみるよ」 「『改めて』ということは、前にも失敗したことがあるのね」 「う……鋭いなぁ、君は。確かに、色よい返事をもらったことはないね。渡辺くんの家は仏教の……ええと、浄土真宗だから。ま、彼は、宗教全般に疎いみたいだけど。キリスト教も宗教のひとつと思っているみたいだし」 「そうなの。じゃあ、精々がんばってね」 「む……」 腕を組んで、これからの計画をぶつぶつ呟きながら練っている哲郎をよそに、私は、夕食の準備をする為、キッチンへと出向いた。 ピンポーン。 来客を告げるチャイムが鳴る。 私はエプロンで手を拭きながら、ぱたぱたとスリッパで、廊下を急ぐ。 なんだか、この頃、お客様が多いなぁ……。 と、思いながらドアを開けると、鶯色の着物を着たおば様が。 うっかり様をつけてしまうほど、その人は上品で、威風堂々としていた。 「お初にお目にかかります。私は、渡辺雄也の母つねでございます」 うわぁ。 お初にお目に……なんて、今時滅多に使わないわね。昭和生まれの母には見えないわ。 それにしても、雄也の年を考えると、大正時代ということは考えられないので……やはり昭和? しかも戦後生まれ? 頭の中がぐるぐるしていると、哲郎がそっと教えてくれた。 「渡辺くんは、つねさんが四十二の時の子供なんだ」 今で云う、高齢出産ですか。がんばったんだなぁ。 しかし、この人は、母と言うより、祖母と言った方がいいような気がする。事実、純也にとっては、お祖母さんなんだけど。 「――初めまして。何もお構いできませんが、どうぞ」 雄也の母でえみりの義母で、純也のおばあちゃんとくれば、通さないわけにはいくまい。 つねさんは、下駄を脱いで、かがんで、下駄を揃える。その一挙一動が実に美しい。 この人、ほんとに雄也のお母さん? 悪い人ではなさそうだけど、疲れそうだなぁ……。 私はほんのちょっと雄也の気持ちがわかり、そっと同情した。 和風の応接間に通して、座布団を勧めた。 「どうぞ」 「ありがとう」 一応哲郎にも座布団をこしらえる。 私は、適度に熱いお茶をお盆の上に乗せて、つねさんの前に置いた。茶碗の模様が正面に来るように。 因みに哲郎の分も淹れてやった。 「粗茶ですが」 そう言って、私は一礼して去ろうとした。 「待ちなさい」 つねさんが、人に言うことを聞かせずにはおかない、張りのある声で、私を引き止めた。 「あの、何か……」 つねさんは、一口、お茶を飲んだ。 「美味しいお茶ですこと」 「ありがとうございます」 私は、ちょっとこの場から立ち去りたかった。雄也達が帰ってくるまで、お客様を待たす訳にはいかないとしても。 「雄也はどこに行っておりますの?」 「渡辺くんは、大学ですよ」 哲郎が答えた。 「ちょっと、あなた」 「私……ですか?」 私は、思わず自分を指差してしまった。つねさんは気付かなかったか、気にしなかったらしい。 「名前は何とおっしゃるの?」 質問されてるのに、立ちっぱなしではなんだと思い、私は畳の上に直に座った。 「私は、秋野みどりです」 「そう。いいお名前ね。それに、お茶の淹れ方がとてもお上手。今度、私のお茶会にいらしてくださいな。僭越ながら、お手前を披露したいですからねぇ」 「は、はぁ……」 「雄也も、今の時代でもこんないい娘もいるのに、あんなアバズレ女と……」 「えみりさんはアバズレ女じゃありません!」 哲郎と私の声が重なった。 「まぁ、では、どんな女だと言いますの?」 「言ってやってください」 哲郎の台詞だ。こんなときに頼りにならないヤツ。まぁ、いいや。 「えみりさんは、ちょっとズレてるけど、子育てに、それは熱心なんです」 私の家事を手伝おうとはしないけど。これは心の奥底にしまった感想だ。 「あんな女に育児を任せておいたら、将来とんでもない子供に育ってしまいますよ。純也は、私の孫でもありますからね」 「それは、若さ故の失敗もあるでしょう。けれど、暖かく見守ってあげてください。それが、祖母としての役目ではないでしょうか」 「まぁ、ずいぶん口が回りますこと」 雄也、ごめん。 アンタの台詞、今、はっきりその意味がわかった。 自分の母親をババァと呼ぶのは賛成できない。だけど、この人は―― 「それに、誰にも相談せずに、いきなり赤ん坊に純也なんて名をつけるなんて、私をないがしろにするにも程があります。私も、あの子にふさわしい名前を考えていたのに」 ああ、この人は、自分の思い通りにならなければ、気が済まない人なんだ……。 「例えば、なんていう名前にしたかったんですか?」 哲郎が、お茶を啜りながら、訊いた。 「そうねぇ……豊吉とつけたかったのよ、私はね。豊臣秀吉にあやかって」 思わず突っ伏したかったのは、私だけではないはず。 けれど、この猿顔の男は、のほほんとお茶を飲んでいた。 「いい名ですねぇ。僕も、秀吉に似ていると言われたことがあるんで。でも、豊吉じゃ、今のご時世、ちょっと合わないんじゃないでしょうか」 日本全国の豊吉さん、すみません! でも、赤ちゃんの名前は、夫婦がつけるのが一番だと思うんです! 「つねさんは、豊臣秀吉が、お好きなんですね」 「ええ。それはもう。太閤様は、私の尊敬する方ですわ」 「つねさんは、出身は愛知だと伺ってます」 哲郎が言う。 そうなんだ。訛りなんてほとんどないじゃない。 「織田信長はいかがです?」 哲郎が、更に訊いた。 「織田信長は……好きではありませんわ」 その話題には、触れられたくないようだった。 「私も訊きたいことがありますけれど」 私は挙手した。 「なんです? 秋野……みどりさん」 「みどりで結構です。豊吉は、自分の息子につけたら良かったんじゃないでしょうか。それに、『雄也』から『也』をとって、息子さん達は『純也』と名付けたのでしょう? 自分の名前に、誇りを持っている証拠です」 「あの頃は……私も父と夫に押し切られて『雄也』とつけましたが、決して、気に入っている名前ではございませんわ」 「でも、雄也さんには愛着があるんだと思います」 「もう結構!」 つねさんは、いや、つねは、だんっと机を叩いた。 「みどりさん。あなた、家事の途中だったのでしょう? 格好を見ればわかりますわ。早く、夕食作りにでも戻ったらどうです? 私のことはお構いなく」 あったま来るなぁ。自分の都合の悪い方に話が進むと、なんやかんや理屈をつけて、すぐに怒り出す。 ……あ、でも、それって、私じゃない。 学校でも、自分の意見を貫くふりして、皆に押しつけていた。 「つねさん……そんな態度はいけないと思います。私、自分を見るようだから言ってるんですが」 私は、片膝を立てた。いつ、部屋から出ていくことができてもいいように。年長者のつねさんから見れば、はしたないことは重々承知で。 「つねさん。もう少し、息子さんのことを信じてあげてください。それは、雄也さんは、はっきり言って口は悪いですが、我慢できないほどではありません。それに、彼は、えみりさんを愛していると思います。信じてあげてください。息子さんと、息子さんの選んだ配偶者。それに、その二人の間にできた、愛の結晶を」 うわっ! 愛の結晶なんて、自然に出てきちゃった! でも、単なる出来ちゃった婚だとは思わせたくないから……。 「そう……」 つねさんは、立ち上がった。 「方々に電話をかけて、やっと居所を突き止めたのが、無駄になってしまったわね」 「つねさん……」 「今日ね、電話があったの。雄也から。自分達は、いい下宿を見つけたから、探さないでくれって。後……」 いつの間にか、親しみを込めた言葉遣いになったつねさんが口元を押さえて、くすくすと笑った。 「お袋に似ている女の子がいるって。あれは貴方ね」 「はぁ……」 「雄也は、つくづくああいう口うるさい女に縁がある、だなどと申してましたわ」 口うるさいは余計だ。 「でも、とってもいい人達だ、楽しめそうだ、って喜んでましたわ。喜んで……」 つねさんの涙腺から、涙が一粒、ぽろりと落ちた。 「私は、もう用なしということね」 「そんなことありません!」 私は断固として言い返した。 「私、つねさんから教わること、いっぱいあると思います。主婦歴だって、つねさんの方が長いですし……」 「ありがとう。みどりさん」 玄関の方から、ざわめきが聞こえる。 「よぉ、ただいま……って、おばさん!」 「ゲッ、ババァ!」 「雄也さん、お母様に失礼よ」 「そうね。でも、私がそう育ててしまったのだから……」 「へっ? お袋、大丈夫?」 「大丈夫よ。そうね。今日は、おまえの好きな、きんぴらごぼうでも作るとしますか。みどりさん、人参と牛蒡と唐辛子はある?」 「あ、はい」 「じゃ、手伝ってくださる? えみりさんも、もし手が空いてたら」 「はい! 喜んで!」 私は、つねさんを台所へと案内した。 「お義母さん、お願い。雄也ってば、きんぴらごぼうだけは、『家のと違う』ってうるさいの。助けて」 えみりがつねさんに手を合わせる。 渡辺家のきんぴらごぼうには、唐辛子を入れるのか。へぇー……。 「わかったわ」 つねさんも上機嫌で応じる。 「おい」 雄也達と一緒に来ていた兄貴が追っかけてきて、私に耳打ちした。 「雄也の母さんに、なんて言ったんだ?」 私は、自分でもとびっきりだと思う笑顔を作って答えた。 「さぁね」 「おい! 哲郎! おまえも一緒にいたんだろ? どんな話をしたら、渡辺のお袋とみどりが仲良くなっているんだ?」 兄貴は、足音もうるさく、応接間に怒鳴り込む、と言ってもいいほどでかい声を出した。 「え? 少なくとも、一触即発の危険なムードはなかったぞ」 哲郎の声は聞こえない。だけど、あの男のことだ。 「僕は一緒にお茶を飲んでいただけだよ」 と、すましてけろりとしているに違いない。 おっとどっこい生きている 12 BACK/HOME |