おっとどっこい生きている 将人は戻ってきた私に訊いた。面頬は外している。汗を拭いていたらしい。 「うん、あのね――」 「何だい?」 「麻生先輩、とりあえずはまた冬美とよりを戻すそうよ」 私は言った。 「そうか」 そのまま、沈黙。でも、嫌な沈黙じゃない。 「ねぇ、今日、一緒に帰れる?」 「そうだな……」 「あ、そういえば、突き指大丈夫?」 「大したことはないよ。もう痛みも取れたし」 私はほっとした。 「んで、さっきの続きだけど――」 と将人が言った。 「俺今日はもっと残っていたいから。――秋野はあんまり遅いと家の人達が心配するだろ」 「……そうだねぇ……」 家では兄貴達が、お腹を空かして待っている。雄也はバイトかもしれないけれど。うん。雄也、目に見えて明るくなった。多分浦芝さんのおかげだと思う。 あまり待たせるのもなんだな。 「将人は何時まで部活やるの?」 「七時くらいまでかな」 「少し遅いわね」 「まぁな。でも、その後で受験勉強もあるからこれでもいる時間短いくらいなんだ。秋野、やっぱり早く帰って安心させてやれよ。同居人達にも宜しくな」 「将人の家は?」 「共働きだから。隼人にはおふくろが飯作ってあるし」 「隼人くん元気?」 「元気だよ。早く教会行きたいって言ってた」 ふぅん。そんなに魅力的なところなんだ。聖栄教会。隼人くんにとっても。 「新聞部は?」 「ここにいるよ」 わだぬきだった。 「秋野。おまえ少し離れてろ。――それじゃあ、今度は練習風景を。桐生と武田で」 わだぬきがきびきびと指示を出す。 「あれ? 新聞部、人数少し減った?」 「麻生の負けを速攻で記事にするんだ。関連記事もあるから何人かは部室に戻ったぞ」 わだぬきがにやりと笑った。 将人はちょっと浮かない顔をした。まるで負けたのが自分であるみたいに。 だが、それはほんの短い時間のことだった。将人は面頬を被った。 どうしようかな――そう思っていた時のことだった。 「あーきーのーさん」 村沢先生の声だ。 「みぃつけた」 怖い顔と声。 「先生……」 「文芸部にも顔出さないでどうしたのよ、もう。今日は会誌の編集よ」 「え? 聞いてな……」 「秋野さん。あなた会誌に一本も小説を載せなかったそうね。何か書いていたらしいけど」 私の台詞を遮って、村沢先生が言った。 「ああ。それは、新人賞に出すことにしました」 「新人賞ねぇ……」 村沢先生が溜息を吐いた。 「まぁ、それなら、部活動の一環としてみとめるけれどねぇ――それにしても、一言いっておいてほしかったわ」 「すみません」 「んーん。謝ってほしいわけじゃないの……ちょっとここ出ましょ」 え? 何で? 村沢先生焦ってる。 「さ、早く」 村沢先生が私の手を取って、引っ張って行こうとした時だった。 「よぉ、村沢先生」 「――田村先生」 村沢先生の顔が、面白くなさそうなものに変わる。 あ、そうか。しまった! 村沢先生は、田村先生と馬が合わないみたいだ。情報通のクラスメートから聞いたことがある。 でも、何でなんだろう。 「そうつんけんしなさんな。しわが増えるぞ」 「ほっといてください!」 何でも、この二人は幼なじみなんだそうだ。けれど、村沢先生は嫌がっているようである。 「行きましょうか。村沢先生」 空気を読めないことに関しては自信があるけれど、今はこの二人を離した方が良さそうである。 「おーい。村沢ー。また来るの、待ってるからなぁー!」 田村先生がひらひらと手を振る。村沢先生は振り向きもしなかった。 この二人、どういう関係なんだろ。 田村先生は村沢先生にちょっかい出して遊んでいるとか。――有り得るな。遊び、と言っても、子供のそれだが。 「秋野さん。今、いろいろ想像してたでしょ」 「は、はい……」 心、読まれてる? 私、そんなにわかりやすい? あの二人が並んでいるところは初めてみたからなぁ……何とも言えないけど。 「田村はね。私のことが好きなのよ」 「……そうなんですか」 へぇー、意外。田村先生がねぇー……。 「プロポーズも再三受けたわ。その度に断って来たけど」 勿体ない。田村先生いい男なのに。少々むさくるしいけれどね。 でも、それで諦めない田村先生もまたすごい。 「村沢先生、結婚しないんですか?」 「したいわよ、それはもう!」 村沢先生は断言した。 「けれど田村は私の趣味じゃないの。悪いけど」 「そうですかぁ? いい男じゃないですか」 「――秋野さんに言っても詮無いことね」 村沢先生の台詞に、私は少し腹が立った。 「村沢先生は理想が高過ぎるんですよ」 「どうせそうでしょうとも。おかげでこの年までオールドミスよ」 オールドミス……自覚はあるんだな。って、先生に失礼だけど。 村沢先生は背の高い美人だ。一応大抵の服は着こなせて、それが様になっている。ださくない。お金持ちの家の娘でもあるらしい。だから、自然と基準が高くなるのかなぁ……。 私は昔は結婚なんてしなくていいと思ってた。なんせ硬派の秋野だもん。 けれど、私は恋をしてしまった。 結ばれたい。一緒にいたいって、幾度思ったことか。それなのに、当の相手、桐生将人とはキスもまだだけど。 将来は将人と結婚したい。たとえそれが高校生故の性急な願いであっても。 「秋野さんは幸せな恋をゆっくり育んでね」 村沢先生の顔がひき歪んだ。 それは、醜いのではない。崇高な何かを湛えたような表情である。自分では手に入れられない高価な宝石をうっとりと眺めているような、そんな顔付きだった。 おっとどっこい生きている 107 BACK/HOME |