おっとどっこい生きている
103
 学校行ってから、四時間目の授業が終わるまでは、特筆すべきこともない。だから割愛する。
 だが、河野先生に、
「秋野くん。授業中はぼーっとしないこと」
 と注意されたことだけは、書いておいていいだろう。
 事件が起こったのは、昼休みのことである――。

 私は弁当を食べ終わると、ぶらぶらと廊下を歩いていた。
 全くあてもなく。友人達も忙しいみたい。つまり、暇だったのだ。
 文芸部に顔出すかなぁ……頼子はいるだろうし。剣道部に行ってるかもしれないけど。
 そしたら剣道部の将人を訪ねる絶好のチャンスにはなるなぁ。
 私がそんな馬鹿なことを考えていると――。
 向かい側から髪の長い女の子が猛然とこちらに歩いて来た。長塚冬美である。
「みどり……」
 地を這いずるようなものすごい声。なまじ美少女なだけに、迫力もなかなかだ。彼女は怒っているらしい。
 でも、冬美って、怒っても綺麗だなぁ。この間、麻生と街を歩いていた女とは格が違うな、なんて、またもやアホなことを考えていたら――。
「麻生先輩に、何言ったの?」
「へ?」
 私は、間の抜けた声を出した。
「とぼけないで! アンタが麻生先輩を誘惑したんでしょ! みんな知ってるんだから!」
 えええええっ?! なんで話がそうなる!
 それに、私には将人もいるし、麻生はあれでも結構モテるし……。
 何で冬美がそんな結論を出すに至ったかわからない。
 第一、誘惑って、冬美じゃあるまいし……おっと、失礼。
 だから、私は言ってやった。
「麻生先輩なんて、全然好みじゃないわよ」
「先輩はそうは思っていないようよ」
 冬美はかがんで、覗きこむようにこちらを睨んできた。うっ、怖い。ちなみに、彼女の身長は私より高い。
「アンタがいけないのよ。あんたがしおりなんて言う変な子連れて来るから」
「だって……しおりは麻生先輩の妹じゃない」
 私は冷や汗を感じながら口を開いた。それは動かし難い事実。
 妹が兄の学校を訪ねるなって校則は、ないわよねぇ……。うん、ないはずだ。
「あんな嫌な子、麻生先輩の妹だなんて、認めないわ」
「アンタが認めなくてもねぇ……」
「私は麻生先輩がいれば充分なの。結婚するわけじゃないけど」
「冬美には、ボーイフレンド、いっぱいいるはずでしょう? どうして麻生先輩にこだわるの?」
「みどり、アンタ、何も知らないの?」
 うーん。何も知らないって言えば、嘘になるかなぁ。麻生先輩は告白してきたのだ。私に。
 でも、それ以上のことは知らない。
「私ね、『みどりがいるから、もうアンタとは付き合えない』って言ってきたのよ! 私はアンタのせいで、麻生先輩に捨てられたのよ! 男を捨てたことは星の数ほどあるけど、捨てられたのは初めてなのよ!」
 つまり何か?! 私のせいで冬美のプライドは傷つけられたっていうのか?! ものすごい、責任転嫁。
 それに、冬美も冬美だと思うなぁ。捨てたことを自慢するなんて。並みの心臓ではできないよ。結構女傑らしいわね。自分が美少女なのもわかってる。
 だから――だから、私は冬美がいまいち好きになれなかったんだと思う。
 将来は昔モテたことを生き甲斐にしている女。まだ女性としての価値、若さの価値を誇っている女。冬美にはそうなる条件が立派に整っている。
「……まるでベル・ダーキンね」
「……え? ベル……何?」
「何でもない。知りたかったら本でも読みなさい」
 ベル・ダーキンとは、ロバート・A・ハインラインの『夏への扉』に出ている女性である。主人公をだまし、会社を奪った上、主人公の友達を寝取る。それでは足りなくて、その友達も殺してしまう(多分)。
 若い頃は女性としての魅力に溢れていて、頭もいいし、猫かぶるのだって得意だった。しかし、三十年後は――本を読めばわかるが、悲惨な姿になっている。
 まぁ、そんな女性と冬美を一緒にしてはいかんか。冬美の方が可愛げがある。それに、彼女はベル・ダーキンほど頭が回らない。麻生のお飾りの秘書をしていたぐらいだ。
「私、いろんな男友達、いっぱいいるんだからね。私が声かければ、アンタをずたずたにすることぐらい、平気っていう男達が山ほどいるんだから」
 ――前言撤回。ベル・ダーキンとは違うけど、やっぱりこの娘、性格悪い。そうか。だからこそ同じような匂いがするんだな。ベル・ダーキンを連想させるような。
 まぁ、冬美の復讐なんて怖くないけど、一応将人に相談して、護ってもらおうかしら。
 だめだめ。今、将人は忙しいんだから。受験も控えているし。
 頼子に相談しようかしら――そう思った時だった。
 冬美は背筋をぴんと伸ばし、手のひらを大きく振りかざす。
 ――はたかれる。
 私はついぎゅっと目をつぶった。
『二年一組の秋野みどりさん、二年一組の秋野みどりさん。社会科研究室に来てください』
 美和のアナウンスだ。助かった。
 私はこれを幸いと思い、ぴゅーっと逃げた。走るのは遅いが、逃げ足だけは速いのだ。冬美は毒気を抜かれたのか、諦めたのか、もうこれ以上追って来る気はないようだ。
 ――社会科研究室。
 一見何をやっているかわからないところだが、要するに新聞部の部室。わだぬきの根城である。私はがらりとスライド式の扉を開けた。
「秋野です」
「おう、入れ」
 わだぬきが偉そうに言う。
 わだぬきのくせに。
「何かあったんですか? 事件とか。綿貫先輩」
 つい、『わだぬき』と言いそうになって、慌てて舌を噛む。
「何やっとんだ。放送を聞いたな」
「ええ。でも、クラスを訪ねた方が早かったんじゃ……」
「俺はなるべくここを動きたくないのよ。んで、仕事中の一年に行ってもらった」
 放送室にか。パシリにされた一年生の方、お疲れ様。
 リョウはいない。当たり前か。教室出る時、寝てたもんな。
「なぁになに。少しは休養も必要よ。あんたのことだから、あの一年――川瀬に同情してるかもしらんが、あれは俺以上の働き者よ」
 し、しっかりバレてる。何? この男。読心術でも身につけているの?
「あのなぁ。これは言わずもがなかもしれんが――麻生だけはやめとけ。必ず、やめとけ」
「言われなくても……」
 私は答えた。
「麻生先輩と付き合う気はありません。私には将人がいるんだから」
「そうか。ならいい。桐生と麻生、比べたら、桐生の方がまだマシというものだもんな。男としても、人間としても。まぁ、あいつはお坊ちゃんなところがあるのは否めないが」
「わざわざそれを伝える為に放送で呼び出したの?」
「ああ」
「あっきれた」
 川瀬くんへの同情も、すっかり消え失せた。わだぬきの頼みをほいほい引き受けてしまうという時点で。
「でも……麻生先輩に告白されたこと、よく知ってますね。綿貫先輩」
「――俺はおまえのことなら、何でも知ってる」
「――まさか、電話機に盗聴器とかつけてないでしょうね」
「おお。グッドアイディアだな。それは。だが、俺は機械に弱い。もっと器用な奴にやらせよう」
 冗談……だよね。まぁ、万にひとつの可能性はあるのだが。このわだぬきのことだもんなぁ。
「そんなことしたら犯罪よ」
「まぁまぁ。そうムキになるな、秋野。冗談だ」
 やっぱり冗談か。私はほっとした。麻生とは違った意味で、何やるかわからないとこあるからなぁ。
「おまえが麻生を選ぶなら、麻生からおまえを奪い返そうと夢見ていたのにな。ほら、なんつーの? 一人の女を二人の男が取り合うなんて、ロマンじゃねぇか」
「ちっともロマンじゃないわ。他に夢はないの?」
「あるさ」
 わだぬきの目が、すっと細くなった。
「俺は、新聞社を建ち上げたい。そして、日本有数の会社に育て上げるんだ。朝目や毎朝のような」
「うまく行くといいわね、でも、スキャンダルを追っているうちは、それは夢のままだわよ」
「もちろん、真っ当な記事を載せるつもりさ。これからは。だけど、そんな野望――野望というより希望だな――に気付かせてくれたのはアンタだよ。秋野、ありがとう」
 わだぬきが不意に穏やかな笑みを浮かべたので、私はつい顔を背けてしまった。結構いい男かも――なんて思ってしまったのだ。『硬派の秋野』が。どちらかというと、醜男の部類に入るわだぬきのことを。
 あ、将人。私は何度も言うように、将人一筋だからね!

おっとどっこい生きている 104
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