おっとどっこい生きている
102
(兄貴と哲郎はゆうべどんな話をしたんだろう――)
 朝食の卵豆腐を作りながら私は考えていた。フクが足元で甘えかかっている。時々すりすりする。
 そんなフクを温かく見守っているのが、リョウである。
「おはよう」
 生あくびをしながら、えみりが台所に来た。
「おはよう、えみり」
「えみりサンおはよう」
 私とリョウが挨拶した。
「お水ちょうだい……」
「どうぞ」
 私は水を注いでやった。えみりがそれを飲む。いい飲みっぷりだ。
「昨日はすごかったでしょ。純也の夜泣き」
「はい。こっちまで届きましたっすもんね」
 純也の夜泣き? そういえば、聞こえてきたような気もするなぁ。
 まぁ、疲れていたからすぐ寝てしまったけど。
「お母さん業も大変ね。えみり」
「このぐらい、なんてことないわよ。純也はむしろ大人し過ぎる方だもん。このぐらい元気なら、かえってありがたいわ」
 うーん。母は強し。
 六時半になって、兄貴と哲郎がやってきた。遅れて雄也も。
(兄貴……)
 私は、思わず兄貴を見遣った。と、兄貴と目が合った。
 どんな顔したらいいのかわからなくて、視線を逸らそうか、一瞬逡巡した。
 兄貴は笑った。
 以前と同じような表情で。まるでこの間のことなんかなかったみたいに。
 私は……ほっとした。そして、嬉しかった。
「兄貴。卵豆腐、大きいのあげるね」
「ほんとか?! ありがとう、みどり」
「こらこら。きょうだいで新婚さんごっこやってるんじゃねぇ」
 と、雄也がツッコんだ。
「いいだろ別に。ほっとけよ」
 兄貴が口を尖らす。
「妹がいないからって、ひがむんじゃないわよ。雄也。アタシがいるじゃない」
「おお! えみり!」
 雄也は座っていたえみりを抱え込んだ。数秒はそのままだった。ったく。
「そういえば、純也は今夜は夜泣きがすごかったな」
「でしょう。雄也も起こしてごめんね」
「いや、構わねぇよ。おまえと純也にかけさせられる苦労なら、も、どんなことでも許しちゃうって」
 えみりと雄也はいちゃいちゃし始めた。雄也はえみりのこめかみにキスをする。
 うーん。雄也には、私達きょうだいのこと、言う筋合いはないと思うんだけどなぁ……。あんたらの方が数十倍恥ずかしいっての。満足したらしい雄也は、えみりと離れ、椅子に腰かけた。
 まぁ、家族が仲いいのはいいことだけどね。
 私達も、仲いい方だと思ってたけど……お父さんもお母さんもトンガに行っちゃったからなぁ。それが、正直言って、少し寂しかった。もっと早くに伝えてほしかったなぁって。
 月曜帰ってくるらしいけど。
 あ、そうそう。情報に間違いがあった。お父さん達は、六月の最後の日に帰ってくるのだ。だって、七月一日は火曜日だもの(注:この話の舞台は、2008年です)。
 兄貴は……私に恋をしていたらしいし。でも、手は出さなかった。
(私、タマルにならなくてよかった――)
 タマルというのは、実の兄に犯された女の名前だ。聖書に載っている。
 うん。そういうことだけは、よく覚えてんのよね。
 犯した兄、アムノンは、ダビデの息子である。
 ダビデも、子供達のことでは苦労したみたい。そんな俗なことは覚えてる。
 ダビデ本人も、バテ・シェバをウリヤから奪ったしねぇ……。
 旧約聖書は、等身大の人間もよく出てくるから、もっとこなれた表現にすれば、面白いと思うんだけどなぁ……。少なくとも、新約よりはずっと好き。
 でも、奈々花は新約の方が好きって言ってたな。これは好みの差、というか、もしかしたら信仰の差かもね。
「ねぇ、哲郎」
 わかめサラダを平らげた後、えみりが訊いた。
「結局受験のことはどうなったのよ」
「ああ。岩野牧師や秋野くんとも話して、受けることにしたよ。受験の費用は、貯金崩してそこから出すよ」
「俺は、最初反対だったんだよ」
 兄貴が仕方なさそうに言った。
「でもな、選択肢は多い方がいいって言葉聞くとさ、うーん、そうなのかなって、考えちまったんだ」
「じゃあ、もっと哲郎は勉強しないといけないわね」
 えみりが言うと、
「ま、そういうことになるわな」
 と、兄貴が答えた。
「哲郎の家って、そんなに金持ちじゃないけど、親御さんが教育熱心でねぇ……だから、哲郎もインプリティングされたんだな」
「インプリ……なに?」
「インプリティング。つまり、刷り込みだな」
「んで、哲郎さんのご両親は今どうしてるの?」
 私は訊いた。
「さてね。弟さんに全てを賭けてるんじゃねぇか。もともと、弟の方が可愛がられてたみたいだし」
「秋野くん……僕の家の事情をそうぺらぺら喋らないでくれよ」
 哲郎が困った顔をした。彼の気持ちも、わかる。
「……わかった、悪かった」
 兄貴が素直に謝った。その素直さが、兄貴の身上だ。
「でも、貯金があるなら、そのお金で別の下宿探せるんじゃなかったの?」
「ばぁか。こんないい条件の下宿って、うちの他にあるかよ」
 私の疑問を、兄貴は一蹴した。
「そうだね……秋野くんは出世払いでいいよって言ってくれたし。できれば貯金使いたくなかったし」
 それって、事実上タダってことじゃない!
 どうして――どうしてうちの家族は私に話さず、勝手に事を進めるの!
 私は少し悔しかった。いつまでも子供だと思うなよ!
「なんだよ。みどり。フグみたいにふくれて」
「フグなんて失礼ねッ!」
 兄貴の卵豆腐はまだ残っていた。私はそれを器ごと取り上げて一口で食べた。
「あーっ! なにすんだよ、みどり!」
「私をつんぼ桟敷に置いた罰!」
「わけわかんねぇぞ! それ! いつ俺がそんなことしたんだ?!」
「哲郎さんの時だって、えみり達の時だってそうだったじゃない!」 
 そう。みんな私に大切なことは教えないんだから。お父さん達が帰ってくることだって! ま、お父さん達からは後でメールが来たけど。
「哲郎はともかく、えみり達は、おまえが住まわせることに決めたんじゃないか! 純也の可愛さに絆されて!」
「悪い? 子供は未来の財産よ! 大事にしなければ罰が当たるわ!」
「だから、俺達は夜泣きに困ってるんじゃないか!」
「私は困ってないわよ」
「そういう自分にさえ害が及ばなければっていうところを直さないとだなぁ……!」
「ストップ! ストップ!」
 えみりが立ち上がって私と兄貴の中に割って入った。
「あのねぇ、アンタら。言い合いならよそでやってちょうだい。 ――そりゃ、純也のことは親であるアタシ達にも責任のあることだけど」
「…………」
 私達は口を噤んでしまった。えみりはまた席に座った。
 でも、きょうだい喧嘩(――に発展する前にえみりに止められたけど)なんて、久々のような気がする。兄貴は……前は両親と一緒ににこにこ笑っているばっかりだったし。それでも、喧嘩はなくはなかったけど。――私達の関係は、元に戻った、と思ってもいいんだろうか。兄貴がどんな想いを抱いているか、そして、その想いはまだ消えないのか、形は変わってないのか、わからなかったけれど、それは兄貴の問題で、私のじゃない。
 フクが「ナーオ」と鳴いた。

おっとどっこい生きている 103
BACK/HOME