おっとどっこい生きている
100
「ほら。フィービーくんですよ」
 岩野牧師が、犬を連れて来た。シーズー犬だ。白と茶色のモップにも見える。
 そのフィービーが、私達を見て吠えた。その様もなんか可愛い。
「牧師は、犬を飼ってらしたんですね」
「ずっと前からですよ」
「なんだ。みどりちゃん知らなかったんだ」
 美和は、散歩の時によくすれ違うのだと言う。
「触ってもいいですか?」
「どうぞ」
 今日子が岩野牧師に抱かれたフィービーを撫でる。
「あら、可愛い。耳飾りしてるのね」
「そりゃ、女の子だからね。おしゃれにしてやんないと」
 牧師が自慢げに笑う。
 ああ、本当に大事に育ててるんだなぁ……。
「いくつですか?」
「三歳になったところだよ」
「私は見たことありませんでした」
 私が正直に言った。
「あれ? そうだったっけ?」
「ええ」
「そうか……神学校や礼拝の時は、あまり会堂に連れて来ませんでしたからねぇ。けれど、映画会や地域集会の時はよく連れて行くんですよ」
「へぇ……」
「秋野さん達は、学校が忙しいでしょうが、映画会にも来ることをお勧めしますよ」
 そう言って、岩野牧師はウィンクした。
 フィービーは、ソファの上に鎮座ましました。ぱたぱたと尻尾を振っている。
「ねぇ、フィービーちゃんて、可愛いですね」
「そう言っていただけると、嬉しいですね」
 牧師はニコニコ。
「なんか、犬って、見ているだけで癒されますわ」
 これは友子。
 奈々花も、フィービーに手をやった。フィービーは、立ち上がって勢いよくブルブルした。
「あははははっ。かわいーい」
 私達は笑った。
 少し古風とはいえ、今時の高校生である。箸が転がってもおかしいのだ。哲郎も笑う。
 フィービーは鼻を鳴らすと、また座った。座敷犬である。
「よかったー、今日フィービーちゃんに会えて。美和、犬、大好きなの」
「良かったわね。美和」
 今日子は、今度は美和の頭を撫でる。
「会えなかったもんねー、今朝は」
 フィービーは、わふ、と鳴いた。
「フィービーちゃんは、よく馴れているんですか?」
 私の質問に、牧師は答えた。
「ああ。とても懐いているよ。おいで、フィービー」
 フィービーは、ソファから降りると、牧師の膝の上に乗った。そこで、大人しくなった。
「結構大きい犬ですね」
「そうだよ。重いよ」
 牧師は、嬉しくてたまらないという風に、フィービーをかまっていた。
「秋野さん達にも、フィービーくんを紹介することができてよかったよ」
 哲郎はその間、微笑みながらその光景を眺めていた。
「それでは、今日は、祈りの勉強をしましょう――」
 私達は、祈りがどんなに重要かをテキストを元に聞かされた。
 祈りというのは、千差万別ではないだろうか。祈りで全てが解決するとは思えない。ところが、岩野牧師は、「解決する」というのだ。
 祈りは、どんなやり方でもいいのだろうか。
 だとしたら、私の祈りは――原稿用紙の中にある。
 私が書いた作品群――たとえば『黄金のラズベリー』。みんなが幸せになるように、そして、自分の幸せの為に(これが大きいけど)、あの話を書いたのだ。
 小説内のキャラクターも、現実に生きている人々も幸せになってほしい。
 ジョン・アーヴィングの『ガープの世界』にこんな表現があるらしい。
「小説を書きはじめるという行為はね、死んだ人間を甦らせようとすることと似てるんだよ。――いや、いや、そういう言い方は正しくないな――むしろ、だれもかれもを永遠に生かしておこうとすることに似てる」
 私も賛成だ。私が死んでも、私の生みだしたキャラには、永遠に生きていてほしい。
 エレン、リー監督、ジョセフ、マリー、マーク――みんな宝物だ。
 ああ、これを読んでいる人にはわからないわね。私がこの話をどんなに愛しているか。まぁ、おいおい説明するわ。
 小説を書くことも祈りに似ている。反対する人がいたって、私はそう思う。
 歌を歌うことだって、マンガを描くことだって、運動することだって――生きていること自体、既に祈りの中に入っているのだと思う。
 こうしなきゃだめっていうことはない。私はそう信じている。
 フィービーが、一声、ワン、と鳴いた。

 今日の神学校は早く終わった。
「ところで……佐藤さん。何か私に話があるのでは」
 牧師が訊いた。
「……はい。実はその……」
 哲郎は言い淀んでいる。奈々花が哲郎を見ている。どことなく不安そうだ。
「なんだね? 言ってみたまえ」
「僕……牧師になりたいんです」
「……ああ、前にもそんなことを言っていたね」
「いえ」
 哲郎がはっきりした声で言った。
「あの時より、本気です。僕には勉強は向いていません」
 岩野牧師は、すぅーっと目を眇めた。
「それは、本気かね」
「はい、本気です」
「どうしてもか?」
「どうしてもです」
 ふぅむ……と、岩野牧師は考え込むようにして、自分の顎を掻いた。
「もう少し、考えなさい」
「でも……」
「全ての可能性が閉ざされてから牧師の勉強をしても遅くはない」
「そんな……僕は今すぐ牧師への道を進みたいのです」
「そうかい? ……君は、浪人だったね。受験が終わってからでも、考えてみていいんではないのかね? 選択肢は多い方がいいんだ」
「しかし……」
「哲郎さん。私もそう思うわ。もし神様の計画があるなら、どんなに回り道しても、哲郎さんなら、必ず立派な牧師になれるわ」
 奈々花が意見を述べた。
「いや、しかし……」
 哲郎は言葉に詰まったようだった。
 目前の試練から逃げているのか、それとも本気なのか――私にはわからない。私の知っていることといえば、哲郎は受験の他に、生き甲斐を求めているということ。受験が必ずしも哲郎にとって最重要事項とはいえなくなったということ。
 哲郎は、いつか神に用いられる人になるだろう。たとえどんなに時間がかかっても。
「こういうことは、なるたけ早い方がいいと思って――」
 哲郎が言葉を探していると、岩野牧師が、彼の肩をぽんと叩いた。
「君が神に用いられることを祈っていますよ。だから、焦らないで、祈っていましょう」
「――わかりました。受験、がんばります」
 哲郎も迷ってたんだ――傍らのフィービーの毛並みを堪能しながら、私は思った。――心配してたんだからね、これでも。

おっとどっこい生きている 101
BACK/HOME