ニューヨークへようこそ! 5

「さて、それでは朝の神学校を始めましょう」
 暖炉のある部屋で(今は焚かれていないが)、グリーン牧師を中心に、リチャード、アイリーン、ジェシカ、レナード、そして龍一郎が円くなって座っていた。
「……今日はマタイ伝の続きです」
 龍一郎が神妙な顔で頷いた。リチャードは視線を落としながら聖書のページを繰っている。
「レナード、アンタ、マタイ伝読んでる?」
「バカにすんな。読んでない訳ねぇだろ」
「そうよねぇ……この教会には子供の頃から通ってるんだもんねぇ。寝てばっかだけど」
「うっせ!」
 二人のやり取りを聞いて、龍一郎はくすっと笑った。
「何だよぉ。龍一郎まで」
「えと……英語よく知らない……」
 龍一郎は誤魔化した。
「さてと、じゃあ新約聖書のマタイのページを開いて……」
 グリーン牧師がマタイの2章を朗々と読み上げ始めた。

 ベルクソン家で朝食をしたためてから、龍一郎は改めてルース・マッケイに会いに行った。ルースは今、自首して警察にいる。
「おはようございます。マッケイさん」
 と、龍一郎。彼は席に腰をかけた。
「アンタか――」
 ルースが苦笑いをした。
「柊龍一郎――だったかな。リチャードから話は聞いてる。アンタ、俺のこともう怒ってないのか?」
 ルースの質問に、
「――どうしてです?」
 と、龍一郎が訊いた。
「俺は――前に二人の日本人を殺している」
「――はい」
「俺は――実刑でせいぜい何十年かだぞ。日本人は今もまだ冷遇されている。この国では。死刑じゃなくて残念だったな」
「いいえ。僕は、死刑には反対ですから。それに、あなたはもう十分反省したと思います」
「――俺はな。軍隊に入って朝鮮戦争に参加した。除隊したある日、日本人が増えててびっくりしたよ。日本人の男は誰もが妻を殺したあの男に思えた。それで俺は――ジャップ狩りを始めた」
「…………」
 龍一郎は黙っている。
「武器庫からマシンガンを盗んで、初めに目についた日本人を殺した」
 ルースは遠い目をした。
「日本人の男はみんなあの男に見えたというのに――」
 ルースは回想から戻ってきた。
「龍一郎。アンタだけはあの男に見えなかった。どうしてだろうな。――アンタにもっと早く会いたかったよ。リチャードにも……」
「マッケイさん――」
「ルースでいい。リチャードも会いに来てくれたよ。あの男もユニークな男だな。変わり者というか」
「何か変なこと言ってたんですか?」
「大したこっちゃない。シャバに出たら、『十月亭』で会おうと――」
「十月亭?」
「彼のダチ――友人が経営しているバーだそうだ」
「僕は行ったことありませんが――」
「どうしてだ?」
「ここに来て日も浅いですし。あなたに会ったのがニューヨークに来た日と同じです」
「そうか。――この国へ来てすぐに、俺に命を狙われたんじゃ、魂消たろうな」
「――それだけでもないのですが。僕にとってあの日は実にいろんなことがありました。僕は牧師になりたいんです。いいことばかりではないかもしれませんが、僕はここで頑張ろうと決めました」
「そうか……それで、おまえはもう、本当に俺を許してくれてるのか?」
 ルースが縋り付くような表情で言う。龍一郎は、聖書の原罪の話をした。人は皆、生まれながらに罪深き者だと。罪を赦すのは神様しかいない、と。――必死さがルースの顔から消えた。
「ありがとう。龍一郎。だが、少し、疲れた……」
 ルースの言葉に龍一郎が立ち上がる。そろそろ潮時だろう。ぺったんこの黒い帽子をかぶった龍一郎は、いい気になって喋り過ぎたかと少し反省をした。
「元気でな、龍一郎」
 ルースが手を振った。「あなたも」と龍一郎が返した。それが龍一郎の、ルース・マッケイを見た最後となった。その後、ルースは肺炎で呆気なく逝った。だが、それはまた別の話である――。

「行きましょう。龍一郎。マリーさんのところへ」
 ベルクソン家に来ていたアイリーンが柔らかい声で誘う。リチャードも一緒だった。
 今日の午後、リチャードとアイリーンはマリー・ラッセンに会う予定だったそうだ。龍一郎にも会わせたい、とアイリーンが言ったら会ってもいいと返事をしてくれたらしい。
 その話を龍一郎はピーター・ベルクソンから聞いた。龍一郎にとっては渡りに舟である。
「マリーさんに会うの、楽しみです」
「私も早くマリーに会いたいね。マリーと龍一郎は同じクリスチャンだから、話は合うだろうな」
 皮肉げなリチャードの言葉に、龍一郎は、「はいっ!」 と、威勢よく答えた。
「龍一郎。お前はいつも元気だな」
「ええ。それだけが取り柄ですから」
「若いということか、いいねぇ」
「リチャードさんはいくつなんですか?」
「内緒だ。お前さんよりは年上だよ」
「若く見えますが」
 龍一郎達が乗った馬車がゴトゴトと走る。やがて、森の道が開けてきた。
「わぁっ!」
 龍一郎は絶景に声を上げた。古びた屋根屋根。農家が多いらしく、一人のおばさんが鶏を追い立てていた。
「素敵ですね! すごいですね! ニューヨークにこんな場所があったなんて!」
「ビルと車だけのところかと思ったかい?」
「ええ。――失礼ですけど」
「ここは郊外に近いからな。それに、ビルと車だけと言っても、あながち間違いではない。私が子供の頃はもっと風情があったんだが」
「昔のことはいいわよ。ね、龍一郎」
 アイリーンの言葉に龍一郎は頷きかけたが、リチャードの視線を気にした。
「さぁ、ここがかの有名なマリー・ラッセンの家だ」
「家――? ここがマリーさんの家ですか?」
「そうだ」
「失礼ですけど――質素ですね。あ、勿論、綺麗に手入れされてるなとは思うのですが」
「マリーは人の為にお金を使っているからな」
「はい。ピーターさんから聞きました」
「私が彼女に寄付をしようとしても、彼女は頑として受け付けない」
 リチャードの横顔に翳が走った。
「詐欺で儲けたお金を差し出しても、マリーさんは喜ばないと思うわ」
 アイリーンの言う通りだと、龍一郎も思った。
 リチャードがマリー・ラッセンの家の扉をノックした。それでも出てこないので、手動のベルを鳴らす。
「はぁい」
 綺麗なソプラノの声が聞こえた。マリー・ラッセンだ。龍一郎も緊張した。――この服で良かっただろうか。
「こんにちは。リチャードさん。アイリーン。そちらはミスタ・柊ね」
「龍一郎と呼んでください」
「わかったわ。龍一郎。今、クッキーを焼いていたところなの。お茶と一緒に、どう?」
 その誘惑には勝てなかった。龍一郎がごくんと唾を飲んだ。リチャードがふん、と鼻を鳴らしてこう言った。
「それにしてもねぇ――世界的なオペラ歌手がこんな貧しい暮らしをしているなんて」
「リチャード、あなた間違ってるわ。私はこの暮らしが好きなの。友人もたくさんいるしね。さぁ、おあがりなさい」
「わからん。私にはわからん」
 リチャードは頭を振っていたが、龍一郎には何となくわかるような気がしていた。
 ああ、やはりこの人は僕の師匠だ――。
 龍一郎が密かに心の中で自分の考えに満足した。アイリーンが「何か手伝うことありますか」と訊いて、「じゃあお茶を淹れてくれる?」とマリーが応えるのが聞こえた。
 とても気持ちのいい家だった。リチャードはまた違う意見を持っているようだが。午後のティーパーティーは、龍一郎にとってとても心地いいものとなった。

2015.12.19

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