ニューヨークへようこそ! 6

「私はね、日本に来たことがあるのよ」
 と、マリー・ラッセンが言う。
「ほんとですか?!」
「ええ。もう昔のことだけど。もう喉は酷使できないけど、アリアの一節ぐらいは今でも歌うことができるわ」
 マリー・ラッセンが、年を取っても美しいその顔に品のいい笑みを浮かべた。
 マリーが歌った歌が何であるか、オペラに疎い龍一郎は知らない。けれど、とても綺麗な声だと言うことはわかった。
 龍一郎は幸せになれた。マリーの歌は人を癒す。龍一郎は朗々と紡がれる歌声にたゆたっていた。
「――どうだったかしら」
「素晴らしいよ。マリー。君は相変わらず天才だ!」
「どうもありがとう。そう言ってくれるのは、リチャードだけよ」
「僕もすごいと思いました」
 龍一郎も正直な賛辞を示す。
「ありがとう」
「もう一度、舞台に立つ気はないのかい? マリー」
「こんなご老体に無茶を言わないで。これでも最盛期より衰えているのよ」
「その分ぐっと深みが増した」
「ありがとう、リチャード」
「もう……リチャードさんたら、マリーさんを褒める言葉はいくらでも出てくるんだから」
 アイリーンが呆れたように苦笑いをした。
「でも……本当に素敵よね。これをただで聴ける私達は何と幸せなことでしょう」
「アイリーン……君は些か俗化したね。ただで聴けるからお得だと思ったんだろ?」
「あら。リチャードさんに俗化したなんて言われたくないわ」
 アイリーンが文句を言う。龍一郎はどっちもどっちだと思った。
 アメリカは素晴らしい国だ――と、龍一郎は思った。
 それは、マシンガンで命を狙われたこともあったけど――。今はこうしてちゃんと無事に生きている。それがありがたいことだと、彼は思った。
「この国は気に入った? 龍一郎」
 マリーの質問に龍一郎は元気よく、
「はい!」
 と答えた。
「特に、マリーさんのアリアを聴いて、ますますこの国が好きになりました」
「あら、お上手ね。もっとお茶いかが?」
「いただきます」
 リチャードとアイリーンが顔を見合わせて笑った。

 マリーは居間にいて、夜闇に沈んだ外を眺めていた。
「どうだったい? 今夜の珍客は」
「龍一郎のこと? ええ、とてもいい子ね。そしてピュアだわ」
「マリーならそう言うと思った」
 リチャードはくすくすと笑った。
「あの男のおかげで十数年ぶりに教会なんぞへ行ったよ」
「まぁ! あなたが?!」
「ちょっと――僕も感化されたらしいです。恐ろしい男だ」
「ますますいい子だわ。クリスチャンだってことは聞いてたけど。――リチャード、あなたもとてもいい子よ」
「――身に余る光栄です」
 リチャードは真面目に言ってから、マリーのいくぶん皺の寄った手を取り、口づけをした。
「マリー、何度も言ってるけど――結婚しないかい? 僕と」
「まぁ、こんなおばあちゃんを相手にするのはあなたしかいないわね。――何度も断ったはずよ。リチャード」
 柔らかい、だが、断固とした拒否だった。
「僕の初恋はあなたです」
 リチャードの青い目がマリーのオリーブ色の瞳をひたと見据える。
「八歳の時、両親に連れられてあなたのオペラを聴いた時から、僕はあなたに恋していました。あなたは初恋の人です」
「それももう、何度も聞いたわ。――ご両親もまだ健在だったわね」
「ええ――」
 リチャードの顔にさっと翳が走る。リチャードの両親は、ある種特別な死に方で亡くなっていたのだ。
「ごめんなさい。思い出させてしまったわね。あの事件のことを」
「いえ、平気です。もう乗り越えました」
「龍一郎も、きっと力になると思うわ。あの子を見て、私は『私の同類がここにいる』と思ったもの」
「おかげで僕もクリスチャンに転化しそうです」と、リチャード。
「それがいいわ。あなたは私が質素に暮らしているのが気に入らないようだけど、イエス様を信じれば、この世の名誉なんて何程でもなくなるの」
「僕はそこまで悟れないな。相変わらず俗な暮らしをしている」
「いい子よ。リチャードはいい子。また会いに来てね。アイリーンと龍一郎と一緒に」
 マリーはリチャードの頭を抱え込んだ。リチャードは目を瞑った。

「ええっ?! リチャードさんて結婚詐欺師だったんですか!」
 龍一郎が大声を上げた。――勿論、リチャードのいないところでである。
 まぁ、あのルックスからして成功率はかなり高いであろうが――。
「そうよ。びっくりした?」
 アイリーンの黒曜石を思わす瞳がいたずらっぽく光る。
「はぁ……」
「でも、マリーさんには本気よ。リチャードさんにしては純愛みたい」
「年が離れているように思えますが」
「――愛に年は関係ないわ。ついでに国籍もね」
「まぁ、そうですが……」
「マリー・ラッセンはリチャードさんにとっては女神のような――いえ、女神そのものなのよ」
 アイリーンが歌うように呟く。
「アイリーンさんはそれでいいんですか?」
「それでいい、とは?」
 質問の意図がわからなかったらしく、アイリーンが訊き返す。
「アイリーンさんはリチャードさんを好きなんじゃないんですか?」
「私とリチャードさんは仲のいい――いとこよ。それ以上でもそれ以下でもないわ」
「いとこでも結婚できるんじゃないですか?」
「さぁてね。法律上ではどうなるのか私にはわからないわ。けれど、昔は確かにリチャードさんに憧れてた。あの人、何でもできるのよ」
 例えば、詐欺とかね――。龍一郎は思わず心の中で呟く。ニューヨークに来た初日の恨みがまだ残っているらしい。
(こんなこと、クリスチャンらしくないんだけど――)
 僕にできることはリチャードさんを改心させることだ。龍一郎はそう心に決めた。
「あのね、龍一郎――リチャードさんは詐欺師を辞めるらしいわ」
 あっさり願いが叶って、かえって龍一郎は拍子抜けした。
「ほんとかい?」
「ええ――もう足を洗うんだって」
「それは良かった」
「あなたのおかげよ。――龍一郎」
「僕の?」
「リチャードはもともと詐欺師に向いてるわけじゃなかったと思うの。全てはマリーさんの為。けど――あなたに会ってリチャードさんは変わったわ。尤も、全く全てというわけではないけれど」
「そんな……まだ会って間もないのに」
「きっとどこかリチャードさんの心を刺激したのね。龍一郎とリチャードさんて、ちょっと似てるもの」
「僕は詐欺はやらないですが――」
「純粋なところがそっくり。リチャードさんもあれでロマンチストなのよ。本気でマリーさんを追っかけてるもの」
「ええ。ちょっと……びっくりしました」
 龍一郎はリチャードを見直していた。誰であれ、愛する者を持つことは良いことだ。
 リチャードがイエス様に繋がればもっと良いなと、牧師志願の若い日本の青年は思った。

後書き
いすかのはしのキャラクターお目見え編です。
メインキャラの一人、柊龍一郎の若き日であります。
いすかのはしの構成は高校生の頃から考えていました。スタ花もいすかのはしシリーズの一編です。
今回の話は短いです。でも、私はこれで満足です。
皆さんがいすか連のみんなを好きになってくれたらいいなと思います。
まだ最愛のアルバートが出ていませんが、それはまたおいおいに……。
2015.1.12


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