ニューヨークへようこそ! 1
1959年11月1日――。
我らが主人公、寒くなってきたのでマントを羽織っている柊龍一郎は……ただ今道に迷っているところだった。
彼が心配していた、唾を吐きかけられたり、スラングでからかわれたりすることはなかったが――。
――どうしよう。
龍一郎は立ち尽くしていた。
一応地図はある。これから世話になる家。ピーター・ベルクソンに教わったのだ。だが――。
(僕、地図と全然違うところにいるんじゃないか?!)
龍一郎は、方向音痴というほどまではいかないが、道順を覚えるのは得意ではなかった。異国の地では尚更。
地図を片手に取り敢えず歩こうとしたが、やはり間違えたのではないかと不安になる。
その時だった。一人の美女に声をかけられた。
「あの……何かお困りでしょうか」
ウェーブがかった黒い長い髪。龍一郎も黒髪だが、硬そうな龍一郎の髪と違って、女の髪は柔らかそうだ。細く高い鼻梁。睫毛は長い。黒真珠みたいな瞳。多分日系ではない。ラテンの血も混じっていそうだ。
「あ……ピーター・ベルクソンさんの家、わかりますか?」
龍一郎はたどたどしい英語で話した。もともと英語は苦手な上に、極上の美女と話しているのだ。
「だったら、ご案内します。ついてきてください」
外見に違わない柔らかい声で彼女は言った。
「……ありがとうございます」
親切な人で良かった。龍一郎はほっとした。
――狭い路地に入って行く。人影も少ない。
こんなところにベルクソンさんは住んでいるんだなぁ。――というか、ここ、やっぱり地図と全く違うんじゃないか?!
「この辺でいいかしら」
女の人が小声で呟くのを龍一郎は聞いた。
「きゃああああああああ!!」
女は裂帛の悲鳴を上げる。
「え? え? どうしたの?」
龍一郎が辺りを見回す。
「――どうしたのかね?」
一人の警官が現れた。金髪を撫でつけている。細く高い鼻が道案内してあげると言って路地に連れ込み、さっき急に叫んだ女の人に似ていた。
「こ、この人が私に乱暴をしようとこんなところに――」
(え?! えええっ?!)
「ふん。貴様、日本人だな。――名前は」
「柊龍一郎。あ、でも、僕は決してそのような……だって僕は牧師志望ですし……」
「言い訳はいい。財布を出せ」
「?」
訳がわからずにボストンバッグから財布を出すと、警官に取られてしまった。
「ふん。シケてんな。――これは返す」
警官が財布を投げて寄越した。
「いいな。もう二度とこんなことするんじゃないぞ」
「待ってください! ピーター・ベルクソンさんの家にはどうすれば――」
だが、もう警官も女の人も行ってしまった。
その後、龍一郎は自力でベルクソン家に着いたのだった――。
「あの青年、見た目より貧乏らしいな」
警官の格好をした男が、改めて札束を数えながら言った。
「リチャードさん……もうやめない?」
そう言ったのは、さっき龍一郎を罠にはめた女である。
「何を言う。やめたらマリーに贈る金がなくなってしまうだろう」
「こんなことで稼いだお金なんて、マリーさんは受け取らないと思うの……」
「馬鹿者どもが持っているより、マリーに渡した方がいいさ」
「いつも送り返されるじゃないの」
「だからさ。これは根競べだ。マリーが私の好意を受け取るか受け取らないかという」
「でも……」
「だから、アイリーン。心配しなくてもいい。本物の警察に捕まるようなヘマはしないから。それに、官憲にもコネがあるしな。俺は」
「リチャードさん……」
アイリーンが不安そうに手もみをしていた。
「すみません。ベルクソンさん。遅くなってしまって」
龍一郎が、ピーター・ベルクソンに挨拶をする。ベルクソン邸は立派な屋敷だ。
「まだ朝の十時だよ。遅いなんてことはないさ。――宜しく、龍一郎。ピーターと呼んでくれ。ニューヨークは君を歓迎するよ」
「とは、簡単に信じられないこともあるんですがね……」
「何があった?」
「ちょっとトラブルに巻き込まれまして」
龍一郎が女と警官に会った経緯を話す。
「ははーん。そりゃ騙されたな」
ピーターが無精髭の生えた顎を撫でた。
「でも、警官の格好してましたし」
「その男は警察手帳は見せたか?」
「……あーっ!」
いささか頭がアマイ龍一郎も、自分が詐欺に合ったことを知った。しかもこれは――。
(シチュエーションがほんの少し違うけどまるで美人局じゃないか)
美人局(つつもたせ)。
美人の奥さんが男を誘惑して、事をいたしているところに腕っ節の強い主人がやってきて、金をせびり取るという――。
龍一郎は、自分は清廉潔白な人間だし、美人局に引っかかる男どもを密かに軽蔑していた。
それなのに、自分が美人局の別バージョンに引っかかってしまうなんて――
最悪だ。
「そいつらはリチャード・シンプソンとアイリーン・シンプソンという二人のグループだ」
「同じ姓なんですね。結婚……してるんですか?」
「いいや。二人は親戚同士だ」
「なんだ……」
龍一郎はほっとした。――だが、何で自分がほっとしてるのかわからなかった。
「まぁ、金は返って来ないと諦めた方が賢明だね」
「どうして。この国にも警察はあるでしょう?」
「リチャードは裏にも手を回している」
「ひどいヤツですね」
「ああ――だが、僕達は、彼のことをそんなに憎めないんだよ」
「どうしてですか?」
「マリー・ラッセン。知ってるかい?」
「名前だけは」
「有名なオペラ歌手だ。最近は自宅に引きこもってて、特定の人間にしか会わないのだが」
「その一人が、リチャードな訳ですね?」
「そうだ。あの男は、マリーに金を貢いでいる。いや、正確には貢ごうとしている。けれど、マリーはどうしても受け取らないんだよ」
「立派な方です」
「マリーは慈善事業に全財産を殆ど使い果たしてしまって……それでもま、生活できる金はあるんだが」
「ますます立派な方です」
牧師になる為、神学校で学ぶ為にアメリカに来た龍一郎だ。富を貧しい者に分け与えたマリー・ラッセンという女が、クリスチャンの鑑に思えてきた。
待てよ? マリー・ラッセンは本当にクリスチャンだっけ?
「ピーターさん。マリーさんはクリスチャンですよね」
「ああ。そのはずだ」
龍一郎の頭の中でリンゴーンと教会の鐘が鳴った。
マリー・ラッセン。いつかお会いしたい。会えなくても、門前払いを食らわせられても、心の中で師匠と呼ぶくらいは構わないであろう。
2015.11.7
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