かつてのスターに花束を
6
 リチャードとリョウが『十月亭』に行くと、待っていたのは仄暗い内装と静かな音楽。そして、女主人のエレイン・リトルトンであった。
「あら、来たわね。二人とも」
「エレインさん。お久しぶりです。今日も綺麗ですね」
「まぁ、ありがとう」
 エレインは艶めかしく微笑む。だが、リョウとエレインは長い付き合いだ。互いに恋愛感情は、ない。リョウの台詞は、言ってみれば社交辞令に近いものだ。
「珍しいお客さんが来てるわよ。――アトゥングルさん」
「何だって?!」
 リチャードの様子が変わる。珍しく驚きの声を上げたが、それは嫌なのではなく、意外な名を出されたので、びっくりしただけなのだった。
「アトゥングル――?」
 リョウは、そっとリチャードの顔色を窺う。
「あ、ああ――すまない。――あいつが来てるのか?」
「そう」
 エレインが頷いた。そしてくすくす笑った。
 やがて、黒人の男性が近寄って来た。黒い縮れ毛に人の良さそうな笑み。リチャードの心に懐かしさが込み上げてきた。
 ケヴィン・アトゥングル。それが彼の名前だった。
「ケヴィン!」
 リチャードが叫ぶと、相手は駆け寄ってきて突然抱き締めた。
「リチャード! リチャード・シンプソン! 会いたかったぞ! おや?」
 ケヴィンはまじまじとリチャードの顔を見た。
「アンタ……老けたな」
 ケヴィンの率直な意見に、リチャードは苦笑した。いつも本当のことしか言わない、彼の――親友。会わなくなってから何年経つか。
 南米へ行く。そう言って、数年前に目の前のこの男は姿を消した。変り者だとは思っていたが、ここまで変っていたのか――リチャードはその時そう思った。その後、手紙ひとつ寄越さないでふらっと『十月亭』に舞い戻って来たのが、いかにも彼らしい。
 しかし、学生時代からの腐れ縁だ。会えて嬉しくないわけはない。
 それに、彼は、『十月亭』とは縁が深い。以前のこの店のオーナーだったのだ。
「ケヴィンおじさん!」
 リョウも再会の喜びを表した。
「おう。リョウ坊や。久しぶり!」
「坊やはやめてくれないかなぁ。来年で二十なんだよ」
「まぁまぁ。騒がしい人が二人になっちゃって」
 エレインがまたくすくすと忍び笑いをした。
「どっちが騒がしいんだよ」
「ケヴィンさんです。僕は大人しくしてます」
「あっ。きったね。自分だけいい子になりやがって」
 ケヴィンのぞろっぺえな口調は健在である。
「それにしても、どうして帰ってきた? 商売が失敗したのか?」
 リチャードが心安だてに話すと、
「冗談!」
 との明るい陽気な答えが返ってきた。
「ケヴィン・アトゥングルと言えば、あっちじゃちょっとした有名人なんだぜ」
「アメリカ合衆国の大統領ほどじゃないだろうけどね」
「ま、大統領には負けるけどな――バーボン」
「はいはい」
 彼らはカウンターの席につく。エレインは酒を持ってきて、ケヴィンのグラスに注ぐ。リチャードにはいつもの。リョウにもコップ差し出す。
「しっかし、ここも辛気臭くなったなぁ。俺が店主だった頃は、もっと活気があったぜ」
「僕は、ここのこういうところが好きなんだけど。静かで」
 リョウが脇から反駁する。
「それは五十過ぎのおじさんが言うことだぜ。アンタ、若年寄か?」
「ケヴィンさんだって六十過ぎのくせに。立派なおじさんだぜ」
「――と、こう来るんだ。何とか言ってやってくれよ。エレイン」
「私は知りません」
 店の雰囲気にけちをつけられたのにかちんと来たのか、エレインはぶっきらぼうに言い放った。
「じゃあ、リチャード。おまえなんか意見したれ。アイリーンとはいとこだったんだろ? いとこの息子がこんな生意気で良いものかね」
「少なくとも私の前では生意気ではないぞ。――ケヴィン」
「ちぇっ。俺の味方なんて誰もいないんだ」
 それでも楽しそうに、酒の入ったグラスを口に運ぶ。
「酒の味は、合格」
「何よ。元オーナーだからって威張って」
 そうやって不満そうにしている辺り、エレインもまだまだ若い。
「で、本当に商売は上手く行ってんのか?」
 リチャードは、一応訊いておくか、という感じで尋ねる。
「ああ。もう上手く行き過ぎちゃって。『濡れ手で粟』って、日本語にあるだろ? そんな感じだよ」
 ケヴィンは景気の良い話を次から次へと披露したが、リチャードはもう相手にしないで、リョウの方を向く。リョウは何となくしょんぼりしている。
「どうした? リョウ」
「俺……ガキなんだよな」
「何だ? さっきのこと、まだ気にしてのか?」
「そういうわけじゃないけど……俺だけウーロン茶なんだもん」
「体にいいんだぞ」
「……俺も酒飲みたい」
「今は駄目だな」
 リチャードは厳しい顔で言った。わかってるよ……と、リョウはもごもごと口の中で答えた。
「じゃあ、ノンアルコールのカクテル、作ってもらうか?」
「うん。そうだね」
「美味しいの作るからね」
 エレインは、普段の大人っぽさと微笑みを取り戻して、リョウにどんなカクテルが好きかをリクエストさせた。
「ちょっと渋みのアクセントの効いた、甘い一杯」
「かしこまりました」
 エレインはいたずらっぽく目を細めて、カクテルを作りに専念する。オリジナルカクテルもここ、『十月亭』の売りものなのだ。
 カクテルはあっさりできた。見た目は綺麗な深緑だ。リョウはそれを一口。
「うん。美味しいね。抹茶を使ったの?」
「そう。持ってきてくれた方がいてね。助かったわ」
「ふうん。じゃ、その人の為に乾杯」
 リョウとエレインは笑い合う。十近く離れているとは言っても、リョウが子供の頃からエレインはリョウの面倒を見ていた。仲がいいのは当たり前かもしれない。リョウといると、エレインも少女に見える。普段は女優よりいろっぽいくせして。
 彼らが子供の頃は、この『十月亭』も賑やかだった。そして――ケヴィンが言う通り、確かに明るかった。ケヴィンの性格を反映してのことだろうか。――なお、リチャードは今も昔も、『十月亭』は好きだ。少女の頃のエレインは、『十月亭』に連れて行くと、青い瞳を輝かせたものだった。
 今の『十月亭』も、固定客がかなりあるし、エレイン・リトルトンの名を聞いて訪れる客もかなりある。
 エレインがオーナーになってからの『十月亭』で揉め事が起きたことは全くない。みんな、彼女の性格に心酔してしまうのだ。彼女の母、ロザリーが観客を魅了した時の如く。
(ふむ……確かにこんなところで埋もれさすには惜しい存在かもしれない)
 ここには、よく映画関係やテレビ関係の人間がやってくる。ロザリーの為に来ているような輩でも、二度目に来る時は、エレイン目当てで来る。
(エレインも賢いのかもしれんな)
 女優が活躍するのは、スクリーンの中や舞台の上と決まっているわけではない。たとえば――そう、こんな店にも隠れた女優はいるのだ。
 エレインはロザリーに似ている。しかし、母ロザリーより、もっと頭がいいかもしれない。リチャードは、一生エレインを応援することに決めた。エレインがいつか、自分の選択に後悔する日がないように。
 ケヴィンも、エレインの人柄に惚れて、『十月亭』の次期店主に据えたのかもしれなかった。エレインは意識せずして、人を惹きつける術を持っている。血筋だろうとリチャードは考える。だが、それを彼女に喋ったことはない。
(ロザリー……君の娘は素敵なレディだ。もう見えないのが残念だな……君はエレインを溺愛していたが)
 本当に愛している者とは何故か上手くいかない。それが、ロザリーの業であったのだろう。
『悲劇の大女優。不幸な死』――ロザリーが死んだ時に新聞を飾った見出しだった。
 エレインが選んで注いだ酒を飲み、ロザリーのことを考える。それが、リチャードのロザリーに対してできる唯一の手向けだった。
 エレインは誰の娘か知らない。ロザリーは恋多き女だった。リチャードの友人だったアルバートが、彼女に横恋慕したこともある。その時も彼女は誰かと同棲していたはずだ。
 私生活ではともかく、スクリーンの上では、リチャードも確かにロザリーを愛していた。虚像を愛していたのかもしれない。だから、彼らの愛は優雅でお洒落で――現実感がなかったのだ。それを多くの女性ファンが紅涙を搾りながら観ていたのだ。一歩間違えれば喜劇になりかねない構図だった。
 エレインの父親に会いたかったものだと、リチャードは思った。ロザリーの私生活で興味を惹かれるのはそのぐらいでしかない。
 スイングドアの軋む音がした。――客だ。リチャードは反射的にそちらに目を遣った。それは、予想もしていない人物だった。ギルバートやケヴィンも意外な人物であったのは事実だが――まさかこの子が!
 カレン・ボールドウィンが『十月亭』の玄関に立っていた。

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