かつてのスターに花束を
4
 カレン・ボールドウィンは高層マンションの一室から外を眺めている。
 ネオンサインや車、道をともす灯りやその他の建物などの光でいっぱいになっている。まるで宝石箱をひっくり返したような華麗さだ。百万ドルの夜景と言っても、言い過ぎではない。
「やあ、カレン。外はどうだね?」
 叔父ロナルド・エイヴリーが、紅茶を持ってやってきた。本格的に淹れたものだ。
 毛足の長い絨毯に、ソファ、ガラス製のテーブル。床は綺麗に掃除がなされている。ロナルドは潔癖症と言えるほど、綺麗好きなのだ。おかげで部屋はいつもぴかぴかだ。
「何を考えていたんだね?」
「何も考えてないわ。ロナルド叔父さん」
 癖のある黒髪を持つカレンが微笑んだ。
「今度の仕事は、ものになりそうかい?」
「――まだわかんないけど」
「しかし、珍しいこともあるもんだね。秘密主義のおまえさんが作品の話をするなんて」
「たまたま話題に上がっただけよ」
 閉めた窓には自分の姿が見える。硬めの癖っ毛に、あまり細くない眉。童顔といっていい顔。その割に彫りは深くて、ラテンの血も入っているかもしれない。背はあまり高くない。だが、胸は大きい方だ。
 可愛いと言ってくれる人もいた。今は誰ともつき合っていないけれど。
(私は、創作活動が恋人だわ)
 未完の作品を入れると、既に五十作以上の脚本を書き散らしている。上手いのかどうか、自分ではわからない。
 ――最初に脚本を書いたのは、幼稚園の頃だった。先生の作った話より上手くて、劇でやったことがある。
 それで、カレンの才能に対して悔しがったその先生に目をつけられて、あまり楽しい思いをしたことはなかったのであるが。才能があり過ぎるのも考えものである。
 カレンの才能に目を止めたハイスクールの先生が、是非シナリオの勉強をするべきだ、と勧められて今に至る。
 けれど、タイトルまで決まっている『かつてのスターに花束を』は難航してなかなか話が進まなかった。
 もちろん、ダニエル・キイスの『アルジャーノンに花束を』を意識してつけたタイトルである。中身は全然違うのだが。
 ダニエル・キイスの作品の中ではあれが一番好きだ。『24人のビリー・ミリガン』も悪くはなかったけれど。
「紅茶、冷めるよ」
 叔父の言葉に、
「いただくわ」
 と、カレンが答えた。
 カレンもロナルドも、差し向かいでゆっくり優雅にお茶を嗜む。
「お菓子も持ってこようか?」
「このままでいいわ」
 うっとりとする紅茶の香りが鼻腔を抜ける。
 ロナルドは四十代前半の男である。カレンの母は、そろそろ五十に手が届こうとしている。――カレンは二十二だ。一人っ子である。母が二十代後半の時に生まれた子だ。
 ロナルドがどうして独身を貫いているのか、カレンにはわからなかったが、昔は彼にも、心に決めた人がいたらしい。――すっかり関係は断たれてしまったが。
 それ以来、この叔父は結婚をしようという気を失くしたらしい。彼らの両親、つまりカレンの祖父母があれやこれや女性を紹介しても、見向きもしなかった。
 彼女はキャロラインといって、時々彼女がどんな魅力的な女性だったかを自慢げに話していた。そして、その目はいつも遠くを見ていて、カレンは哀しさを感じた。
 どうして二人はわかれるようになったのだろう。だが、カレンは聞いたことがなかったし、叔父も話したことがなかった。きっと悲恋だったのだろう。
 いつかシナリオに書いてみたいと思うのだが、ロナルドの古傷に触るようなことだったら、そんなことはしたくなかった。
「リチャードと会って、何か収穫があったかい?」
「ええ。ロナルド叔父さん」
 カレンは紅茶を一口、口にした。美味しくて心が休まる。程良い甘さと上品さ。これだったら、店に出してもおかしくない。
 だが、ロナルドには本業があった。――映画製作所の所長だ。小さな製作所だが。彼は監督もやったことがある。
 彼は映画を愛しているのだ、とカレンは思った。映画が、好きで、好きで――キャロラインと別れたのも、案外それが原因かもしれない。
 人は、浮気ならまだ救われる。憎くとも、相手の顔がわかるからである。映画が好きでたまらないロナルドの心と張り合うのは、キャロラインにはしんどかったかもしれない。
 まぁ、その血を私もひいてるけどね――カレンはお茶をもう一口飲んだ。
「お代わりあるから、飲むかね?」
「はい!」
 叔父ロナルドは、お茶を淹れるのが異様に上手い。どこで習ってきたのかと思うほどだ。
 カレンがそう訊くと、先刻お馴染みのキャロラインが教えてくれたのだと言う。
 カレンはキャロラインに多大な興味を抱いている。うんと小さい頃は、キャロラインのような立派な女性になってロナルドと結婚したいとさえ思った。父よりロナルドの方が好きだと思った。
 今ではそんなことは遠い過去の想い出だし、三親等の叔父と姪では結婚はできない(多分)とわかっている。
『かつてのスターに花束を』を書き終えたら、ロナルドとキャロラインの話も書こうと思っている。捏造した設定が満載かもしれないが。彼らが何で別れたのか、叔父は話題にしたことがなかった。
 それにしても、リチャードはある種のカルチャーショックを与えてくれた。
 スターだと言われていたから、もっと傲慢な、やなやつかもしれないと思っていたが、彼は普通の人間であった。
 騒がれた人間が普通でいられることは珍しい。ロザリー・リトルトンは謎の死を遂げた。その他にも、運命を狂わされた人は多い。
 だが、リチャードはあくまでごく当り前な人間だった。ユニークで、静かで、大人で。
 カレンは、ギルバート・マクベインに会った時に、子供のように憧れの目を向けていたリチャード・シンプソンを知らないのだが。
(リチャードさん……また会いたい)
 カレンは、リチャード・シンプソンという男に惹かれていた。それは、恋に似た感情なのかもしれなかった。リチャードはもう年だ。恋そのものではなかったが、好意は持っていた。
 リチャードを題材にして良かったと思っている。何か一行でもいいから書きたくなって、うずうずしてきた。
 空になった紅茶のカップをソーサーに置いた。
「ご馳走様」
 ロナルドは、「ああ」と答えた。
 カレンの部屋はロナルドの部屋の隣にある。高価なマンションだから、部屋も値段に見合うくらい、広い。
 カレンは早速机に向かった。ノートに、タイトルと設定を書きつける。
 彼女は、設定に凝る方である。書かなくてもいい部分、細かなところまで気をつける。書かなくていい部分が、実はその作品全体を支えている、と彼女は信じている。
 またリチャードのところに取材に行かなければなるまい。今度はメモ用紙を持って。使わないかもしれないが。カレンはメモをとるのが苦手だった。想像力で、設定を埋めるのである。
 彼女は絵は描けないが、シナリオを書くという才能を与えられて、今は神様に感謝している。幼稚園の頃は、そのせいで先生にいびられて、何度も部屋で泣いたことがあったが。
 彼女はその時の話も書こうと思っている。先生や自分や、他の登場人物にはもちろん偽名を使うが。先生の名前を覚えていないのだから、そうするより他に仕方がないのだが。
 想像力の翼がはためいているのがわかる。――さぁ! もう飛ぶ時だ!
 カレンはノートに舞台、登場人物、彼らの性格や癖、細かい設定を書き付けている。
 今まで書いた作品は、短編が主だった。長編のシナリオは珍しい。彼女はこれを叔父の経営している映画製作所に持っていくつもりだ。
 主演はもちろん、リチャード・シンプソン。地味ではあるが、良い作品になることは疑っていなかった。
 リチャードがどんな生活をしているか、何を考えているか――何を愛しているか。
(リチャードさんは、『十月亭』によく出入りしてるって、ロナルド叔父さんから聞いたけど……)
 カレンは『十月亭』を知っていた。リチャードにそのことを言えば、彼は喜んでそこに連れて行ったであろうが。
 しかし、カレンはあの時はそこまで頭が回らなかった。
『十月亭』に行ったら会えるのであろうか。
 客として行く分には構わないだろう。もう二十一歳は超えているし、エレイン・リトルトンにも会ってみたい。彼女は、死んだ母そっくりの美貌であるらしいから。だが、そのバアを切り盛りしている以上、もしかすると母親よりしっかりしているかもしれない。
 アル中の母親を持っている癖にバアを経営しているのが、謎といえば謎だが。
 カレンはしばらく仕事に熱中していた。タイプライターもあるにはあるが、肉筆で書いた方が性に合っていた。
 何故彼女がメモを取るのが苦手か――どんな話も大切だと思っているからである。話を全部書こうとするので、聞き流したり、書きとめ損ねた話があるとどうしても悔いが残る。今では開き直って、メモを取らないことにしたが、その方が頭に入ることがわかったのだから、怪我の功名である。
 今度こそ――と彼女は思った。今度こそ、この長編を完成させてみせる。今まで挑戦しては失敗したのであるが。
 いや、一度だけ書き通したものがある。『愛する者へ』というタイトルの話であるが、映画会社(ロナルドのところとは違うところ)に応募したところ、見事一蹴されてしまった。
 まだ修行が足りないのだ、と彼女は思った。本格的に勉強しようか、とも思った。だが実地で体験したことを書く方が実になり、いい作品を書くのに繋がる、とも考えていた。
 想像力と体験。これさえあれば怖いものなしである。今回は傑作になりそうな予感がするが、今はまだあくまで予感である。
 どこにも相手にされなかったら仕方ない。もうシナリオライターになるのはきっぱりと諦めようとまで、彼女は思い詰めていた。
 カレンは、登場人物に言わせたい台詞をさらさらと書き出していた。
 メモがあれば、もっといいのであろうが、彼女は前述のように、メモを取るのが苦手であった。どれが特に大切なのか、選べないからである。どんな下らない話にも、一片の真実が隠されている、と彼女は思っている。それに、幸い彼女は記憶力がいい方だ。
 リチャードのことを細かく設定してみる。感じはどこにでもいるおじいさん、だが、美貌は衰えていない。皺はスクリーンで見た時よりだいぶ増えたが。基本的にはそんなに老けてはいない。オーラもまだ充分にある。
 ロザリーとは対照的だ。以前見た写真の中のロザリーは、実際の年齢より老けて見えた。酒と、だらしのない生活の為であろう。酒に溺れたおばあさん――いや、おばあさんは気の毒か。年を取った女性に見えた。美人の終りは猿になる、というけれど、これほどぴったりな諺はなかった――カレンは、趣味で世界各国、特に日本の諺を好んで勉強していた。
 こんな話が昔なかっただろうか。昔の美人女優が、老残の女性と変わってしまった後でも、美人であった頃の、みんなにちやほやされていた頃が忘れられないで、主人公を囲うという話。
最後には主人公に浮気され、彼を殺してしまう。その最後のシーンで彼女は、大女優としての演技をカメラの前でするのである。あれは執事みたいな男である、妻だったその女優を我がまま勝手、好き放題にさせた最初の夫が悪いのだと思うのだが。
 あれは何というタイトルだったろうか――思い出せないのは、昔より記憶力が衰えてしまったせいか。記憶力がいいことが自慢であったとしても。だとしたら、人のことは笑えない。
 その話のことは置いておこうと、彼女は思った。今は取り敢えず自分の仕事が先だ。
 ペンが驚くほどスムーズに走る。彼女は夢中になっていて、時間の経つのを忘れていた。
「カレン、風呂はどうするかね?」
 訊くロナルドに、
「きりのいいところまで続けるわ」
 と、答えた。
 けれど――そういう時ほど、興が乗ってしまって、きりのいいところが見えないものだ。お腹も空かない。トイレに行く気にもならない。でも、お風呂には入る――ロナルドと似て清潔好きだからだ。
 話のあらすじが見えてきた。さぁ、ラストスパート!
 カレンは設定とあらすじを数時間かかって書き上げた。完璧とまではいかなくとも、かなり完璧に近い設定だ。最初はリチャード・シンプソンにこれを読ませたいとカレンは考えた。なんせ、この脚本の主役であるのだから。

かつてのスターに花束を 5
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