かつてのスターに花束を
17
 二日後――。
「起きなさーい」
『十月亭』の女主人、エレイン・リトルトンが二階に行って声を張り上げる。
 この酒場は、前はケヴィン・アトゥングルのものだったが、今はエレインのものである。
 リチャードが眠い目をこすった。どうやら昨夜は飲み明かしてしまったらしい。ケヴィンと。
「もう! いい加減にしてよね! いい年なんだから、加減しないと!」
 エレインは叫ぶ。その様子は、昔、彼女の母ロザリーに、
「ママ! いい加減にしないと体に毒よ!」
 と言っていたのと同じ口調である。出来過ぎた子を持つと、親は苦労する。
「ああ……もうこんな時間か。起きろ、ケヴィン」
「ん、んーん。もうキスだけじゃおさまらねぇよ……」
「どんな夢見てんだ! 早く起きろ! エラが怒ってるぞ」
 エラ――子供の頃のエレインを、リチャード達はそう呼んでいた。今でも時々口に上る。
 リチャードはケヴィンの掛け布団を剥いだ。
「うー、さみ。あ、おはようディック。もう雪は止んだかな?」
「雪なんぞもうとっくに止んどる! それからディックと呼ぶなと言ったろ」
「へいへい。あー、せっかく南国の美女といいとこだったのになぁ」
「南国になら、いつでも行けばいいだろう。大金持ちなんだろ? おまえは」
「まぁな」
 ケヴィンはにやりと笑ってみせた。
「この『十月亭』百軒買ったってお釣りが来るよ」
「ちょっと! ケヴィンさん! リチャードさん!」
 怒気を露わにしたエレインが三回ドアをノックして部屋に入ろうとした。
「おー! ただいま着替え中、ただいま着替え中!」
「着のみ着のままのくせに何が着替え中よ! 入るわよ!」
 宣言した通り、エレインは中に入った。扉を開けて。
 男二人の服装はよれよれになっていた。
「――二人とも、奥さんがいなくて良かったわね。そんな格好で帰ったら追い出されるわよ」
「いやぁ、俺には三人の現地妻が……」
 ケヴィンが気まり悪げに頭をぼりぼりと掻く。
「興味ないわ。それより、リョウとカレンが帰ってきてるわよ」
「リョウとカレン? アリスは?」
 リチャードの問いに、エレインは興味なさそうに、さあ、と、両腕を上げるジェスチャーをした。
 この『十月亭』には、二階に酔客を寝かせる為のベッドのある部屋がある。リチャード達も、そこにはよくお世話になっていた。尤も、威張れたことではないが。
「大丈夫? かなり飲んでたようだけど」
「ああ。平気……のようだ」
「嘘ばっかり。あまり飲み過ぎると出入り禁止にしますからね」
 リチャードはくすっと笑った。エレインが『出入り禁止』をほのめかすのは一体何度目だろう。それでも、それを実行したことはなかった。
 エレインも人恋しい質なのである。それに、どうしても入れることのできない事情がある場合、リチャード達の方が遠慮する。
「笑ったわね。リチャードさん。本当にやるわよ。今度こそ」
「そしたら、俺がアンタから権利書を取り上げるまでだよ。お嬢さん」
「訴えるわよ」
「どうぞご自由に。その時俺は第二の故郷に行ってるよ」
 第二の故郷――ブラジルのことか。
 リチャードはゆうべ、ケヴィンからそこでの成功談を嫌というほど聞かされた。自分が何と返事したのか、あまりはっきり覚えていない。適当に相槌を打っていただけのような気もする。
 このままではアルコール中毒になってしまう。もうなっているのかもしれない。エレインの顔が見たくて訪問するという目的もあるが、あまり無茶はできないな、と思う。
 ――ロザリーの例もある。
(ロザリー……)
 リチャードは頭を振って、酒精と共にロザリーの記憶を追い払おうとした。だが、それは、終生つき纏う人生の汚点であろう。酒で消えるものではない。
 どうせなら、素面で彼女の霊と付き合おうではないか。彼女を毎夜偲んで、彼女のことを思い返して。
 だが、自分はそこまで強くあれるだろうか。
 カレン・ボールドウィンの登場が、リチャードの内的生活を激変させた。外見は何も変わっていなくてもだ。
 自分は彼女の為に、もう一度だけ銀幕の世界に戻ろう。美貌と呼ぶには年をとり過ぎたこの面を晒して。
 彼女には才能がある。彼女の助けになりたい。
(参ったな、こりゃ……)
 恋かもしれない。自分がロリコンだとは思わなかった。大人の女性に恋をする若い燕を演じていたこともあるというのに。
 老いらくの恋か――日本の作家で、『痴人の愛』という小説を書いた、ジュンイチロウ・タニザキとかいう作家がいたそうだが、その世界に自分も入っているのかもしれない。
 もちろん、カレンは自分の断固として譲れない核を持っていて、それは何人たりとも犯すことはできないが。
 そういえば、彼女とリョウが帰ってきていたのだった。
 リョウはマザコンだし、ケヴィンは要するに何でもいいし、正直、自分が正常であるかどうか心許なくなっている最近のリチャードである。まともなのはエレインだけかもしれない。浮ついた噂は聞かないが。それはそれで問題があるのかもしれない。
 階段を降りると、リョウとカレンが待っていた。
「リチャードさん!」
 叫んだのはカレンである。カレンとリョウは、リチャードを挟んで、彼の両頬にキスをした。
「お帰り。二人とも。――アリスはどうした?」
「あんまりうるさいんで、ロスの彼女の親父さんところに引き取ってもらったよ。最初からこうすれば良かったんだ」
「そんなこと言って。あなた寂しがって溜息ついてたじゃない」
 カレンがからかうように笑う。
「違う! ――と言いたいとこだけど、ほんとはちょっと寂しいかな。でも、俺にはカレンがいるから」
 おっと。さりげなく口説こうとしているな。油断のならない奴だ。
 アイリーンと体液の交換はしたことはないが、もしあったら、リョウは自分の息子ではないか、と疑っていたところだ。リチャードとて、木石でもなければ、聖人君子でもない。
 ――もしそうであれば、ロザリーと過ちを犯さない。
(尤も、もうそうそう過ちを犯す年でもないがな)
 ケヴィンと違って、昔ほどの体力は既にないリチャードである。何とか今日まで元気でいた、というのが奇跡に思える。
 いや、人間は、生きていることそのものが奇跡なのだ。命の源を使い果たして、人は老いて、死んでいく。それが、自然のことのように思える。
 だから、命を粗末にする若者のことを、リチャードは理解することができない。昔は自分もそうであったことなど、とうに忘れたく思っている。
 幸い、リチャードの友人達は生を謳歌している者達ばかりだ。彼らを見たら、ロザリーも自分一人悲劇のヒロインであることが馬鹿馬鹿しくなって止めていただろう。
 ――そう、ロザリーは或る意味、悲劇の人であった。だが、それは彼女の選んだ道だ。
 人は、他人を完全に救うことはできない。人を救うのはその人自身なのだ。
 人や環境は、或る程度まではその手助けをすることができるが。――それを作るのは神だろうが、人間が神の方に振り向かなければどうしようもない。
「何か作ってよ。エレインさん」
 リョウがスツールに腰をかける。はいはい、とエレインが苦笑する。リョウが飲むのはノンアルコールのカクテルだ。
「リョウ。おまえ薬に手を出したことはあるか?」
 リョウは咳き込んだ。どんどんと苦しそうに胸を叩く。
「どうして?」
「学校とかで流行っていないかと思ってな」
「俺が誰だかわかってるの? 牧師の息子だよ」
「そうだな。変なこと訊いて悪かった」
「ほんとに変よ。リチャードさん。リョウはそんなことする子じゃないわ、ねぇ?」
 エレインの言葉に、ケヴィンもカレンも、うん、うんと頷く。――リョウ自身もだ。
(羨ましい)
 そんな風に、誇れる心と健康な体を持った彼らが羨ましい。彼らに薬は必要ない。彼らには神への信仰がある。神が至高の世界へと高めてくれる。
 リチャード自身がスパイ容疑で検挙され、戻って来てからも心が荒れていた時代。どうしようもなくて手を出したことがある。注射はしなかったが。若い彼に神は残酷だった。
 本当に、あれは最悪の期間だった。どうして戻ってこられたのか、よくわからない。
 龍一郎との出会い、アイリーンの細やかな愛情、レナードやジェシカの友情――そんなものが糧となって、今がある。それには感謝せずにはいられない。自分の人生を見る時、人はそこに、決して目には見えないが、神の手を感じる。それは、残酷で優しい。神はそれ自体、矛盾を孕んでいる。
 そして、アルバート・オブライエン。
 彼は、リチャードの幼い頃、リチャードの両親を殺した強盗をナイフで刺した。リチャードはそれを見たショックで緘黙症となった。一年間、喋れなかった! だが、リチャードは、アルバートが逃げる時、叫んだのだ――アルバート!と。
 スイングドアが開いた。談笑していたリョウやカレンやエレインが、その方を見る。
 男臭い体臭。六十を超えても逞しい体躯――ギルバート・マクベインがまたやってきたのだ。昨夜はホテルにでも泊ったのだろう。リチャード達のぱっとしない格好に比べて、りゅうとした男らしい身なりだ。
 その男がカレンを見た時、はっとして、やがて獲物を狙う猛禽類の目になった。リチャードはトラブルの予感を覚えた。

かつてのスターに花束を 18
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