かつてのスターに花束を ケヴィンのグラスでからんと氷の音が鳴った。 「……『夏への扉』に出て来るフレーズのもじりだ」 「……夏への?」 「そうだ。リッキィ・ティッキー・テイヴィーのもじりさ。主人公が彼自身にとって大切な女の子につけた、愛称みたいなものだ。その話に出て来る主人公のピートという名の飼い猫はいつも夏への扉を探している」 ――ロバート・A・ハインラインの名著、『夏への扉』は日本でも愛されている。龍一郎がそう教えてくれた。 作品の出来もいいし、猫好きにとってはたまらない一冊だろう。 リッキィ・ティッキー・テイヴィーの元ネタは、キップリングの小説に出て来るマングースの名前らしいが。 「夏への扉っつったって、今は冬だぜ」 「そういう無粋なことは言わないの」 エレインはカウンターに寄りかかった。そうすると胸の谷間が露わになる。 「私、あの作品好きよ。ああ、細かい内容は忘れていたけどね」 「おい、エレイン。目の毒だ」 「あーら。ごめんあそばせ」 エレインは、わざとおどけて秋波を送った。 「ところで、どうした? あのマザコン坊やは」 「カレンとアリスにアイリーンを見せる為に、自分の家に帰って行ったよ」 「忙しいやっちゃ。ところで――アリスって何者だ?」 「アリス・シャロン。リョウが好きだという変わり者だ」 「へぇー。そいつはボランティアかね。母親以外に目の行かない男に惚れてどうすんだ」 「まぁ、私にもわからない深い謎があるんだろうよ」 そう言って、リチャードは笑った。 「懐かしいな、リチャード。おまえはあの頃から少しも変わってない」 「変わったよ」 「どこが?」 「人が悪くなった」 「まーたまたぁ。おまえさんほど素直なヤツは珍しいよ」 「龍一郎だってそうだろ?」 「まぁ、なぁ。あいつは結構思い込み激しいけどな。だから、牧師なんて堅苦しい職業やってんだ」 リチャードは気のなさそうに首をこくんと縦に振った。 ケヴィンは自分のことを喋ろうとしない。また、それでいいんだと思う。南米で何をやらかしていたのかはわからないが。 話したくなったら、向こうから話してくるだろう。 「久々に龍一郎に会いたくなったな……酒」 「はいはい」 エレインがまめまめしく用意をする。 「この天気で、リョウ達、龍一郎の教会に行けんのかな?」 「ああ、そうか。天候の問題もあったな」 しかし、天気のことは大丈夫だろうと踏んでいた。吹雪になる前に、リョウ達はこの街を出たはずだ。 今日は積もるだろう。リチャードはそう考えた。子供達は喜ぶかもしれない。 そういえば、そろそろクリスマス。雪が降ったらホワイト・クリスマスだ。 教会に礼拝に行くのもいいかもしれない。龍一郎と、その奥様となったアイリーンの切り盛りする教会へ。 きっと、龍一郎は相変わらず生真面目だろう。アイリーンは、この間会った時は、ますます美しくなっていた。結婚生活が幸せな証拠だろう。 (アイリーン……) リチャードにはきっとどうすることもできなかったアイリーン。救ったのは龍一郎だ。 龍一郎も元気だった。皺と白髪が増えたことはどうしようもない。自分だって同じようなものだ。 だが、目が――あの黒い目が昔と同じだった。懺悔せずにはいられなくなる。自分がどんなに罪深いかと、跪きたくなる。 あの龍一郎が、未信者の多くいる日本で生まれたなんて、到底信じられない。 そう言ったら、龍一郎が、 「僕も同じ罪人ですよ。義人なし。一人だになし」 そういうもんかとリチャードは黙って聞いていたが―― 龍一郎が優しいのは、己に厳しいからだ。 どこかで読んだフレーズだが、忘れてしまった。つまり、このフレーズが龍一郎にも合うと言うことだ。 「どうしたの? 黙りこくっちゃって」 エレインが最良のタイミングで訊く。思考と思考の間に、素早く入り込む。 「龍一郎のこと、考えてたんですよ」 「おまえ、本当はリュウに惚れてたんじゃないのか?」 「まさか」 俗な話題をふるケヴィンに、リチャードはおっとりと微笑む。 レナード・オルセンじゃあるまいし――。 レナード・オルセン。ゲイで、若い頃龍一郎に惚れていた。自分も彼をけしかけたことがある。 そして、レナードに惚れられたのが自分でなくて本当に良かったと、密かに安堵していた。龍一郎にとっては、いい迷惑である。 その後、ジェシカ・イーストウッドと結婚し、子供もできた。ゲイからは足を洗ったみたいだ。 イーストウッド・カンパニー。レナード・イーストウッドはそこの社長である。会長が、体の方が優れないみたいだから、次期会長と見ていい。 しかし、何故、昔の仲間がこんなに気になるのか。年、なのだろうか。しかし、アルバートのことは思い出したくない。 「おい、グラス、減ってないぞ」 ケヴィンが肘でリチャードを小突く。リチャードは慌てて飲み干した。すごい勢いで咳き込んだ。 「リチャード!」 青褪めたエレインが駆け寄る。 「どうしたの? 一体今日は。もう酒は禁止ね。今日いっぱいは」 「あ……ああ、すまない」 「ドジなヤツ」 ケヴィンがにやにや笑いを浮かべた。 「あなたもよ、ケヴィン」 「何で俺が。グラスの酒減ってないの、指摘しただけじゃないか」 「それでも、連帯責任よ」 「ちぇっ」 ケヴィンが唇を尖らした。 「じゃあ、俺、別の店で飲み直して来るわ」 「そうしてちょうだい」 「と言っても、この雪じゃなぁ」 外では雪片が沢山舞っている。うっとりとリチャードが眺めた。 (あの子達は、もう教会に着いただろうか) 無事着いててくれるといい。己と違って彼らはまだ若い。未来に希望が持てる年頃だ。事故や災難から救って欲しい。 自分は祈ることを覚えた。たとえそれが手遅れだったとしても。 アルバート……ロザリー……。 私を呼んでいるのは彼らか? それにしては、随分と優しげだ。彼らも天国へ行っただろうか。 「神はそうあることを望んでいます」 いつか龍一郎から聞いた言葉だ。神は、不幸な人間を慰める。どん底に陥った者を助け出す。 神は愛なり。 しかし、アルバートは愛せそうにない。いや、本当は愛していたかもしれないが。真実は闇の中だ。 己はこれから、この闇の部分を抱えて生きる。二人を不幸に追いやった罪で。 今度、そのことも、龍一郎に話そうか、と思った。龍一郎は、そんなことないですよ、と、あの柔和な笑顔で言ってくれるだろう。 また、アルバートとロザリーが結ばれたら、もっと酷い結果になった可能性だってある。それでも、リチャードの罪は消せはしないが。 (私はスクリーンの中ではなく、現実に亡くなったロザリーのことを思い出そう) それが、ロザリーに対するせめてものあの世へのはなむけだ。あの世でも、アルコール中毒にならないことを祈る。 エレインに背中をさすられて、人心地ついた。 「もう若くないんだから、あんまり無茶な飲み方はすんなよ、ディック」 「うるさい……ディックと呼ぶな……」 酒場のスイングドアが開く。この特徴的な足音。一回聞いたら二度と忘れられない―― 「ギルバート・マクベイン!」 かつてのスターに花束を 14 BACK/HOME |