かつてのスターに花束を
13
「さっきのディッキー、ティッキー・テイヴィーって、どっかで聞いたことがあるんだよなぁ……」
 ケヴィンのグラスでからんと氷の音が鳴った。
「……『夏への扉』に出て来るフレーズのもじりだ」
「……夏への?」
「そうだ。リッキィ・ティッキー・テイヴィーのもじりさ。主人公が彼自身にとって大切な女の子につけた、愛称みたいなものだ。その話に出て来る主人公のピートという名の飼い猫はいつも夏への扉を探している」
 ――ロバート・A・ハインラインの名著、『夏への扉』は日本でも愛されている。龍一郎がそう教えてくれた。
 作品の出来もいいし、猫好きにとってはたまらない一冊だろう。
 リッキィ・ティッキー・テイヴィーの元ネタは、キップリングの小説に出て来るマングースの名前らしいが。
「夏への扉っつったって、今は冬だぜ」
「そういう無粋なことは言わないの」
 エレインはカウンターに寄りかかった。そうすると胸の谷間が露わになる。
「私、あの作品好きよ。ああ、細かい内容は忘れていたけどね」
「おい、エレイン。目の毒だ」
「あーら。ごめんあそばせ」
 エレインは、わざとおどけて秋波を送った。
「ところで、どうした? あのマザコン坊やは」
「カレンとアリスにアイリーンを見せる為に、自分の家に帰って行ったよ」
「忙しいやっちゃ。ところで――アリスって何者だ?」
「アリス・シャロン。リョウが好きだという変わり者だ」
「へぇー。そいつはボランティアかね。母親以外に目の行かない男に惚れてどうすんだ」
「まぁ、私にもわからない深い謎があるんだろうよ」
 そう言って、リチャードは笑った。
「懐かしいな、リチャード。おまえはあの頃から少しも変わってない」
「変わったよ」
「どこが?」
「人が悪くなった」
「まーたまたぁ。おまえさんほど素直なヤツは珍しいよ」
「龍一郎だってそうだろ?」
「まぁ、なぁ。あいつは結構思い込み激しいけどな。だから、牧師なんて堅苦しい職業やってんだ」
 リチャードは気のなさそうに首をこくんと縦に振った。
 ケヴィンは自分のことを喋ろうとしない。また、それでいいんだと思う。南米で何をやらかしていたのかはわからないが。
 話したくなったら、向こうから話してくるだろう。
「久々に龍一郎に会いたくなったな……酒」
「はいはい」
 エレインがまめまめしく用意をする。
「この天気で、リョウ達、龍一郎の教会に行けんのかな?」
「ああ、そうか。天候の問題もあったな」
 しかし、天気のことは大丈夫だろうと踏んでいた。吹雪になる前に、リョウ達はこの街を出たはずだ。
 今日は積もるだろう。リチャードはそう考えた。子供達は喜ぶかもしれない。
 そういえば、そろそろクリスマス。雪が降ったらホワイト・クリスマスだ。
 教会に礼拝に行くのもいいかもしれない。龍一郎と、その奥様となったアイリーンの切り盛りする教会へ。
 きっと、龍一郎は相変わらず生真面目だろう。アイリーンは、この間会った時は、ますます美しくなっていた。結婚生活が幸せな証拠だろう。
(アイリーン……)
 リチャードにはきっとどうすることもできなかったアイリーン。救ったのは龍一郎だ。
 龍一郎も元気だった。皺と白髪が増えたことはどうしようもない。自分だって同じようなものだ。
 だが、目が――あの黒い目が昔と同じだった。懺悔せずにはいられなくなる。自分がどんなに罪深いかと、跪きたくなる。
 あの龍一郎が、未信者の多くいる日本で生まれたなんて、到底信じられない。
 そう言ったら、龍一郎が、
「僕も同じ罪人ですよ。義人なし。一人だになし」
 そういうもんかとリチャードは黙って聞いていたが――
 龍一郎が優しいのは、己に厳しいからだ。
 どこかで読んだフレーズだが、忘れてしまった。つまり、このフレーズが龍一郎にも合うと言うことだ。
「どうしたの? 黙りこくっちゃって」
 エレインが最良のタイミングで訊く。思考と思考の間に、素早く入り込む。
「龍一郎のこと、考えてたんですよ」
「おまえ、本当はリュウに惚れてたんじゃないのか?」
「まさか」
 俗な話題をふるケヴィンに、リチャードはおっとりと微笑む。
 レナード・オルセンじゃあるまいし――。
 レナード・オルセン。ゲイで、若い頃龍一郎に惚れていた。自分も彼をけしかけたことがある。
 そして、レナードに惚れられたのが自分でなくて本当に良かったと、密かに安堵していた。龍一郎にとっては、いい迷惑である。
 その後、ジェシカ・イーストウッドと結婚し、子供もできた。ゲイからは足を洗ったみたいだ。
 イーストウッド・カンパニー。レナード・イーストウッドはそこの社長である。会長が、体の方が優れないみたいだから、次期会長と見ていい。
 しかし、何故、昔の仲間がこんなに気になるのか。年、なのだろうか。しかし、アルバートのことは思い出したくない。
「おい、グラス、減ってないぞ」
 ケヴィンが肘でリチャードを小突く。リチャードは慌てて飲み干した。すごい勢いで咳き込んだ。
「リチャード!」
 青褪めたエレインが駆け寄る。
「どうしたの? 一体今日は。もう酒は禁止ね。今日いっぱいは」
「あ……ああ、すまない」
「ドジなヤツ」
 ケヴィンがにやにや笑いを浮かべた。
「あなたもよ、ケヴィン」
「何で俺が。グラスの酒減ってないの、指摘しただけじゃないか」
「それでも、連帯責任よ」
「ちぇっ」
 ケヴィンが唇を尖らした。
「じゃあ、俺、別の店で飲み直して来るわ」
「そうしてちょうだい」
「と言っても、この雪じゃなぁ」
 外では雪片が沢山舞っている。うっとりとリチャードが眺めた。
(あの子達は、もう教会に着いただろうか)
 無事着いててくれるといい。己と違って彼らはまだ若い。未来に希望が持てる年頃だ。事故や災難から救って欲しい。
 自分は祈ることを覚えた。たとえそれが手遅れだったとしても。
 アルバート……ロザリー……。
 私を呼んでいるのは彼らか? それにしては、随分と優しげだ。彼らも天国へ行っただろうか。
「神はそうあることを望んでいます」
 いつか龍一郎から聞いた言葉だ。神は、不幸な人間を慰める。どん底に陥った者を助け出す。
 神は愛なり。
 しかし、アルバートは愛せそうにない。いや、本当は愛していたかもしれないが。真実は闇の中だ。
 己はこれから、この闇の部分を抱えて生きる。二人を不幸に追いやった罪で。
 今度、そのことも、龍一郎に話そうか、と思った。龍一郎は、そんなことないですよ、と、あの柔和な笑顔で言ってくれるだろう。
 また、アルバートとロザリーが結ばれたら、もっと酷い結果になった可能性だってある。それでも、リチャードの罪は消せはしないが。
(私はスクリーンの中ではなく、現実に亡くなったロザリーのことを思い出そう)
 それが、ロザリーに対するせめてものあの世へのはなむけだ。あの世でも、アルコール中毒にならないことを祈る。
 エレインに背中をさすられて、人心地ついた。
「もう若くないんだから、あんまり無茶な飲み方はすんなよ、ディック」
「うるさい……ディックと呼ぶな……」
 酒場のスイングドアが開く。この特徴的な足音。一回聞いたら二度と忘れられない――
「ギルバート・マクベイン!」

かつてのスターに花束を 14
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