かつてのスターに花束を
12
「あら、どなた?」
 しっとりとしたアルトの声が電話口から聞こえて来る。
「俺だ。リチャードだ。まだ店開いてるか?」
「誰もいないから閉めようとしたところなんだけど」
「じゃあ、ちょっと待っててくれないか? 話がしたい。エラ」
 少し間が合って、エレインから応えがあった。
「いいわ。リチャードさんの頼みですものね。でも外は雪よ。それに吹雪いているし」
「大丈夫だ」
「わかったわ。お待ちしております」
 そう言ってエレインは電話を切った。リチャードも受話器を置く。
 ふぅーっと大きく息を吐いた。
 シャワーを簡単に浴びて着替える。だぼっとした茶色のセーターに、黒いスラックス。襟元から見えるのはペパーミント色のブラウスだ。
 こんなくだけたなりをしていると、彼があの『黄金コンビ』――リチャード・シンプソンとロザリー・リトルトン――の片割れだとはわからない。
 髪にブラシを入れる。髪はもうすっかり霜が降っていた。彼なりの苦労の結果だろうか。
 だが、まだまだいい男の部類に入る。皺が多くなったとはいえ、リチャードの美貌は損なわれてはいない。
 リョウはカレンとアリスを連れて、父の教会に向かっている。アイリーンに紹介するつもりなのだろう。
 ああ……と、リチャードはコ―トを羽織りながら思った。
 アリス・シャロン。性格もいいし、可愛い子だ。何より、リョウに惚れてくれている奇特な少女だ。
 何故リョウがアリスを疎ましがっているのか――わかるような気はするが、決して悪い子じゃない。
(上手くいかんもんだな)
 せめてアリスが黒髪だったら――やめよう、繰言だ。
 カレンはあまりリョウに興味がなさそうだし。
(やれやれだな)
 従妹のアイリーンの息子だ。リョウには幸せになって欲しいと思う。カレンもアリスもいい子だ。どちらかが彼と結婚してくれたらどんなにいいだろう。
 アイリーンは魅力的な娘だった。龍一郎はのちに言った。
「僕は……彼女に一目惚れしたんだと思う」
 ――と。
 リョウも言っていた。
「俺の母と比べてみな。アイリーンと比べたら、ロザリー・リトルトンなんてめじゃないぜ」
 家族の贔屓目を差し引いてみても、アイリーンは素晴らしい娘だった。
 優しくて、美しくて、何でもできて――そして、リチャードに惚れていた。
 リチャードはそんなアイリーンの気持ちに気付いていながら、利用したのだ。龍一郎が現われるまで。
 柊龍一郎。彼は善人だ。それでも、自分にはまだまだ罪があると反省している。それが善人の証ではあるまいか。
 龍一郎のあの大きな黒い目に見つめられると、自分が少し恥ずかしくなって、このままではいけないと感じさせる。そんな人格的な力が、彼にはあった。
 彼に会えてよかった。龍一郎に会えたことで、少しは自分の人生が報われたように思う。こんなろくでなしの人生も少しは変わったのだ。
 俳優を志し勉強して、いろいろな人に会った。ロザリー・リトルトンとも縁があったのは、多分映画界に入ったおかげだ。
 ――ロザリーの為には、自分は会わないままの方が良かったかもしれないが。
 ロザリー・リトルトンはリチャード・シンプソンが好きだった。ロザリー本人が告白してきた。
 けれど、アルバート・オブライエンも彼女が好きで――。
 ロザリーと寝た時、アルバートへの意趣返しを考えなかったとしたら嘘になる。彼にされたことは忘れてない。
 だが――それに彼女を巻き込むことはなかったと思う。生涯最大の汚点だ。みんな不幸になっていった。あのアルバートすらも。
 けれど、不幸だからといって悲嘆に暮れる趣味はリチャードにはなかった。終わったことは終わったことだ。
 取り敢えず、『十月亭』に行こう。
 そう心を決めて、リチャードはドアを開けた。
 外は猛吹雪だ。寒い。体が凍えそうだ。
 強い風にあおられた雪が容赦なくリチャードに叩きつけて来る。
 けれども――リチャードは『十月亭』に行きたかった。こんな風に同じところをぐるぐるしている時には、酒でも飲んで胃の腑から熱くするに限る。
 電話をしておいてよかった。エレイン・リトルトンはまだいるだろう。
 こういってはなんだが――エレインはロザリーより賢い。
 ロザリーの血縁とすぐにわかるような顔をしているくせに、破滅型の性格は、幸いにも母親から受け継がなかった。
「ハレルヤ!」と叫びたくなるのは、こういう時だろう。
 エレインは神の恩寵を受けている。うまい話に飛びつかず、地道に『十月亭』を守っている。
 このぐらいの確かさが、ロザリーにもあったなら――と思うと、悔やんでも悔やみきれない。
 アルバートは……あの美貌の蛇のような男はリチャードとロザリーを狙った。
 彼はどうして我々を執拗につけ狙ったのか。彼だって幸せにはなりたかった筈なのに。
 神を恨むとすれば、エレインがアルバートと出会わなかったことである。アルバートがロザリーに燃えるような恋をしていた頃、エレインはまだ物心ついたかついていなかったかの頃だろう。ひょっとすると、まだ生まれていなかったかもしれない。
 その時リチャードは神の皮肉を見る。
 アルバート・オブライエンは、初めから破滅するように創られていたのだろうか。もしそれが神の手なら、リチャードは神など信じはしない。
 思考があっちへ行ったりこっちへ行ったりする。
 要するに、なるようになるのだ。
 アルバートも、あれでなかなか、地獄が性に合っているかもしれない。
 彼は、リチャードの友で、敵である。
 妄執には縁のないリチャードだから、アルバートの一旦こうと決めたらなかなか諦めない性格は、そら恐ろしくすらある。
 リチャードの靴は、さく、さくと新雪を踏む。
 リョウ達は大丈夫だろうか。リチャードはわざと思考を飛ばした。
(リョウはあれでしっかりしているから、心配はいらないとは思うが……)
 リチャードはコートの襟をかき合わせながら思った。
『十月亭』のドアを開けると、中ではまだ暖房が焚かれていた。
「いらっしゃいませ。リチャードさん」
「やあ。老いた身にはこの寒さはこたえるね」
「『今日はおいでになるのはやめた方がいいですよ』と言おうとしたんだけど」
「なに、それほどの距離じゃない。――ウィスキー頼む。氷は入れないでくれ」
「はいはい」
 苦笑しながら、エレインはウィスキーを入れる。
「もしかしたら、もう寝るとこだったか?」
「まぁね。誰もいないんですもの」
『十月亭』の閉店時間はまちまちである。一応午前七時には閉める予定であるが、ここで行われている客同士の大事な会議が長引いたりすると、ずっと開けっぱなしのことも多い。
 エレインの口は固い。業界では有名なことである。
「邪魔してすまなかった」
「いえいえ。どうも」
 エレインは微笑んだ。
 リチャードは酒を飲む。エレインは空のグラスを吹きながら片目を閉じて汚れがないかを確かめる。
「ああ、リチャード!」
 ケヴィン・アトゥングルがドアを開いて入って来た。
「うー、さむ。えれぇ災難に遭ったぜ」
「災難て?」
 リチャードが訊いた。
「この雪さ。――うー。温まらせてくれ」
「君だって雪に慣れていないわけじゃなかろうに」
「南米に行くと寒さに弱くなるんだよ。あの国は天国だね。帰りたくなってきたよ」
「じゃあ、とっとと帰るがいいさ」
「冷たいね、ディック」
「ディックと呼ぶな」
 ディックとは、リチャードの愛称である。だが、男性器の隠語でもある。それを知っててケヴィンはディックと呼ぶから始末が悪い。下ネタが嫌いなリチャードは眉を寄せる。
「あなた達さぁ……いいんだけど、十年一日のごとく同じ会話をしてるわね」
 エレインは呆れ顔になっている。
「リチャードさんも、ケヴィンさんぐらいには、ディックと呼ばせてあげればいいのに。――ディッキー・ティッキー、ティーヴィー」
「何だそれは」
「何でもないわ。今思いついただけ」
 エレインはさっと玉虫色のドレスを翻す。ケヴィンがリチャードの隣に座った。

かつてのスターに花束を 13
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