かつてのスターに花束を 時計が四時を回ったと思ったら、空はもう淡い藍色に染まっていた。 吐く息は揃って白い。もう十二月なのだ。 弱い日中の日差しと、降ってはくるが少ない雪。溶けずに残った雪はひっそりと、道端の隅に肩を寄せ合っていた。 その中に、皆の行く方向とは反対に、時々立ち止まったりして手持ちの地図を確認して進む女性がいた。 彼女は納得して頷くと、次の角で曲がり、そう貧弱ではないが、ひなびたアパートの前で足を止めた。 (ここだわ) このアパートは独身男性が多いと言われている。彼女は階段を上り、二階に向かって右の、突き当たりにある部屋の扉をノックした。 予想通り――というか、何も考えてはいなかったのだけれど――扉はすぐに開いた。 背の高い、老年の男性がそこにいた。彼女は彼に挨拶をした。 「こんにちは。リチャード・シンプソンさん。私、叔父のロナルドから紹介されてきました、カレン・ボールドウィンです」 「お入り」 まるで孫を待っていたおじいさんのようにぽつんと呟いて、部屋の中に彼女を通した。 黄ばんだ壁に貼ってある、同じように黄ばんだポスター。 古ぼけた、しかしどこにも痛んだ様子のない、年代物の布張りのソファ。 凝った装飾の置き物やきらきらと金色に輝く置き時計など。 狭い部屋には不必要な程に物がひしめいていたが、不思議と散らかっているという感じはしなかった。誰が見ても、あるべき位置に収まっていた。 ここに迷い込んだ客は、昔自分が遊んでいた、屋根裏部屋や、秘密の物をたくさん隠した小部屋などを思い出すのだ。 カレンも例にもれず、たくさんの物で埋まった部屋を興味深げに見渡す。 意外と人はすんなり通れた。 男は先に行って手招きして呼び寄せると、ひとつしかない長いソファに彼女を座らせる。 「待っててくれ。今お茶を淹れてあげるから」 男は丁寧に紅茶を淹れると、菓子と一緒に盆に乗せ、テーブルに運んできた。 「あ、あの――ありがとうございます。いただきます」 彼女は紅茶を一口、喉に流し込んだ。 冷えた体が奥から温まる。 「寒かったろう? ご苦労だったね」 「ありがとうございます」 「一人で来たのかい?」 「ええ」 「言ってくれたのなら、迎えに来たのに」 「いえ――それには及びません。それとも、アポイントメントは必要だったのでしょうか?」 「いや。気儘な一人暮らしだからね」 リチャードは微笑む。カレンは言った。 「――リチャードさん。私、貴方のことは映画やテレビなどでよく拝見しておりました」 「テレビ?」 リチャードはふと、端に止めた言葉を、興がるような瞳で訊き返した。 「ほら、名画とか、よくテレビでもやってるんです、それで」 「ああ」 言いながらカレンは、こんなに物がある部屋の中に、テレビが見当たらないことに初めて気がついた。 「テレビ、ないんですか?」 「まさか」 リチャードの目が笑っているように見える。 カレンは辺りに目を遣った。やはりない。でも―― 「そうですよね。見当たらないからてっきり――……」 「見当たらないはずだよ。この家にテレビはもうない」 「どっちなんですか」 「ついこの間まであったんだが、人にあげたんだ。私にはあってもなくても、どっちでもいい物だしね。だけど、あったことはあったんだ」 「そうですか。でも、不便は感じませんか?」 「テレビが必要な時は、『十月亭』に行くよ」 「『十月亭』?」 「私の行きつけの酒場だ」 「どこにあるんです?」 「すぐ近所だよ」 「そうなんですか」 カレンはリチャードを観察する。 かつて銀幕の大スターとして多くの女性達を魅了してきた往年の美貌は……今も健在だった。 だいぶ皺が増え、額は幾分広くなったとは言え、鼻筋の通った高い鼻と、冴え冴えとした青い瞳は変わらない。 彼の魅力は年齢によって損なわれるものではなく、年を重ねることによって、新たな実をつけていくものである。 昔の華やかさはないが、長く生きた巨木のような威厳と温かみがある。 尤も、リチャードの容貌は、若い頃から、どこか植物的であった。 いつも穏やかな笑みを湛えている、美しいが、喜怒哀楽の目立たない感情の起伏に乏しい顔。だが、それが彼の武器であった。 表情に頼らず、身振りや仕草、右に出る者なしと言われた絶妙な台詞回しによって、観客の涙を誘った。抑えた表情が。 台詞に真実味を与える。 彼は確かに一昔前の――視覚や聴覚だけでなく、情感に訴える作品が多かった頃の名優だった。 何より印象的なのは、瞳。 物事を端から眺め、その裏にある真の姿を見据えている、深い知性の輝きを潜めている。 カレンが初めて間近で見るリチャードは、スクリーンで観る彼と、そう差がなかった。 スクリーンから降りても、脚光を浴びなくても、彼は彼――リチャード・シンプソンだった。 この人だ……。カレンは思った。 あの役――今はまだ、彼女のイメージの中にしか存在しない役だが――にふさわしいのは彼しかいない。 「カレン、君はいくつかね?」 「二十二です」 「二十二……若いね」 「はぁ」 「何にでもなれる年頃だね」 「そうですか?」 金色の置時計を持ち上げ、仔細に眺めながら、リチャードは 「今は、何かやってるのかね?」 と、訊いた。 「独学で映画のシナリオを書いてるんです。バイトをしながら」 「やはり、シナリオを書いているのかい。シナリオライター養成学校みたいなところには行かないのかい? 今あるだろう? ずいぶん」 「はい。それは、方法を学ぶというのも、必要なのかもしれませんが」 「別に方法なんか重要ではないさ。自分の書きたいものをしっかり持っているのなら」 リチャードは時計を置いた。そして言った。 「私も演技の勉強なんかほとんどしなかった」 そこで彼は話を変えた。 「エイヴリーから話は聞いているよ。君は、面白い子なんだってね」 「は……」 どういう風にロナルド・エイヴリーが自分のことを話したのかは、訊きそびれた。 だが、カレンにとって、リチャードは初対面という感じがしなかった。 彼には一緒にいるだけで相手の緊張をほぐす力があるようだ。 まず、彼からして相手に気を許しているからに違いない。 どんなことを言っても、何を話しても、彼なら耳を傾けてくれるだろう。お茶やケーキと一緒に。 ここは心地良い。リチャードが築き上げた城だ。 しかし、誰か客が入ってきても、彼は気にしない。いつも通りでいるだけだろう。 「貴方ほどではないと思いますが」 「やはり面白い人だ。――私が面白いって?」 「今度のシナリオの主人公のモデルは、リチャードさんにしようと思うんです」 「それは光栄だね」 そう、きっかけは、カレンが久々にリチャードの出演する映画を観、最近は全く彼が出ていないことに気が付いたことだ。 かつてのスターに花束を 2 BACK/HOME |