二人の夢の中 1

「アルベール……起きろ!」
 アルバート、いや、アルバート・オブライエンであるところのアルベール・アラムは些か手荒な手段で起こされた。
 もうすっかり夜だった。
 リチャード……君に会いたい。俺はまた嫌な大人の世界に戻って来たよ。
 アルベールはここにはいないリチャードに話しかける。当然、それにはどこからも反応がなかった。
 両親を殺されたリチャード。リチャードの両親を殺した強盗を殺めたアルバート・オブライエン。リチャードは今何しているのだろうか。
(でも、元気そうだったな……)
 それが、アルベールの心をほっとさせた。
 金が溜まったらここを出よう。リチャードと一緒に暮らしたっていい。
「アルベール、客だ」
 変態にいいようにされるのも、芸術家くずれに美の化身扱いされるのも、もう何もかもうんざりだ。アルベールは齢十一にして既に生きることに倦んでいた。
 同じ年くらいの少年に敵視されるのも嫌だ。今はもう顔も覚えていない両親はどうして自分をこう小奇麗に産んだのだろう。同じ年頃の友達一人できやしない。
 最近、人好きのしそうな少年に、
「ねぇ……」
 と、声をかけただけで逃げられ、離れたところからひそひそやられていた。
 別にいいさ。俺にはリチャードがいる。
 リチャード・シンプソンだけが心のよすがだった。
 アルベールは半ば投げやりに男達に体を差し出す。それでもエレクトする自分が嫌だった。こんな嫌らしい少年はリチャードに嫌われないだろうか。
 アルベールにとってリチャードは天使だった。自分が大人達の世界の汚濁に引きずり込まれそうになっているから、リチャードは彼にとっての錨だった。
「ああ、アルベール……」
 今度の客はアルベールの幼い精液を飲みたがった。何であんなものを飲みたがるのだろう。アルベールにはわからなかった。
 ――彼は果てるとそのまま眠ってしまった。

「リチャード!」
 アルバートはつい叫んでいた。
 またリチャードに会えた! これは最早奇跡ではないだろうか。この時間だけは神様に感謝もしたくなる。
「これ、君の為に取って来た木の実。味と安全性は保証つきだよ」
 リチャードが木の実を差し出す。
 おお、リチャード……!
 アルバートはリチャードを抱き締めていた。リチャードは木の実を落としたが、されるがままにされていた。
 リチャードだけはあの変態どもと違う。この世の全ての綺麗なもので出来ている。
「アル……」
 リチャードはあやすようにアルバート背中をぽんぽんと叩く。
「済まない。リチャード……」
「ううん。誰にだって泣きたい時はあるよね。僕は目を覚ますと泣けなくなるんだ。言葉が出なくなるんだ」
「なん、だって……?」
「でも、アルの方が辛い目に遭ってきたのわかる」
 そう言ってリチャードはにっこり笑った。
「行こうよ、アル」
「どこへ――」
「どこでもいいよ。ここには僕達を傷つける物は何もないんだ」
 何もかもが美しく、傷つけるものは何もなかった。
 ――カート・ヴォネガットの『スローターハウス5』に出て来た言葉だ。
 この言葉は詩的で美しい。けれど、アルバートやリチャードが子供だった当時にはこの小説はまだ影も形もなかった。
「ああ。行こう。リチャード。天国へ」
「それって死ぬことなの?」
「俺達にとっての天国だよ」
 そして、アルバートは手を差し出した。リチャードは嬉しそうに手を差し出した。
「さぁ、行こう。誰も行ったことのない土地へ」

「アルベール……」
 嫌だ。俺はアルバート。アルベールになんか戻りたくない。
 アルベールは頑として頑張った。だが、覚醒への使者には勝てず――。
「おはよう。アルベール。今日は随分早いお目覚めだね」
 それが嫌味を含んだ言葉であることはもうアルベールも知っている。
 でも、放っておいてもらいたい。仕事はちゃんとやるから。
 アルベール・アラムとしての生活、アルバート・オブライエンの生活。どちらも立派にやってのけてやる。――俺はこの自分に優しくない世界を生き抜いてやる。
 リチャードがいるから――。
「今度はどんなお客さん?」
 アルベールを使役する男は『話が早い』と言いたげだった。男もアルベールと言い争いをする時間は惜しいらしい。
 ようやく自分の立場が分かってきたか。
 その目はそう言っていた。冗談じゃない。こんなことを我慢するのはリチャードに会う為だ。
 リチャードが頑張っているんだから、俺もがんばらなくては。
 アルベールにとってリチャードはそれ程大きな存在だった。この頃のアルベールだったら、リチャードに死ね、と言われたら死んだであろう。
 正確にいえばアルバートとしての彼が死んで、アルベールとしての抜け殻が残るのだ。
 アルバートは喋れなくなった、泣けなくなったリチャードを可哀想に思った。
 けれど、夢の中でなら、彼は喋れるのだ。
 ビッグ・ツリー。あそこで待ち合わせをしよう。
 別に示し合わせた訳ではない。だが、リチャードならそこで待っててくれるという確信もあった。
「さぁ、次の客は誰?」
「乗り気だな。アルベール。その意気だ」
 男は初めて少年の頭を撫でた。少しの間ぼーっとして、
「どうして頭撫でるの?」
 と、訊いた。
「君が良い子だからだ。他意はない」
「俺は悪い子だよ。知ってるでしょ? おじさん」
「人を殺したからかい?」
 図星を突かれてアルベールは黙ってしまった。
「人を殺しても、夢を諦めない少年には神様からのプレゼントがあるんだよ。――まぁ、俺も今はこんな仕事をしているが、昔はいい暮らしをしてたんだ」
 男の話は半分は興味がなかった。でも、神様からのプレゼント、という考え方はとても素敵なものに思えた。
「おじさん、名前、何て言うの?」
 男は驚いた顔をした。そして、顔が和らいだ。
「ジュール・バイヤールだ。何だ。こんなことに興味があるのか?」
「別に」
 邪険にしてやったのに、世話役の男は嬉しそうだった。
 そして――男と交わった後、天からの訪れ、眠りの時間がやってきた。

 リチャードはビッグ・ツリーの根方に眠っていた。
「この野郎……俺が来たというのに眠っているとはいい度胸だ」
 アルバートは呟いたが、本気ではないのだ。
 しばらく寝かせてやるか。
 木漏れ日に照らされたリチャードの顔はたいそう美しかった。この頃どんどん綺麗になっていくような気がする。
 細く高い鼻梁。長い睫毛。白い顔を彩る黄金色の髪。まるで女の子みたいだ。
 アルバートはリチャードの顔に自分の顔を近づけた。いい匂いがする。このところ、アルバートの夢はだんだんリアルになってくる。
 あの唇にキスしたい。
 そう思った途端、リチャードがパチッと瞼を開けた。
(俺は……何て邪なことを……!)
 アルバートは狼狽えた。これでは自分を買った男どもと同じではないか。同じような欲望をアルバートも持っていたことになる。
「あ……おはよう。リチャード」
 起き抜けのリチャードはにこぉっと満面の笑みを浮かべた。その笑みがとても綺麗だとアルベールは思った。

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2020.07.27

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