田園交響楽 7

『困ったね――』
 リチャードが電話越しにそう言った。
 カレンは温めたミルク片手に喋っている。この乳臭い匂いがカレンは好きだった。
『リックは言って聞くような子じゃないからね。私に似たんだな。その辺は』
「まぁ――」
 カレンがくすりと笑った。
「自覚ありってことなのね。リチャードさん」
『龍一郎にも相談してみるよ。あいつは人の話を引き出すのが上手い』
「そうね。リチャードさんよりはね」
 電話から哄笑が聞こえてきた。リチャードも洒落がわかるのだ。でなかったらケヴィンなどという男とも付き合っていないに違いない。――この人が好きだ。カレンは訳もなくそう思った。
『それにしても、あの子にシャンパンをかけるなんてやるじゃないか』
「私も自分でよくわからなかったんです、リチャードさん。ただ頭にかーっと血が昇っちゃったので」
『……疲れていたんじゃないかい? カレン』
「それもあるけど――台本直しでかなり参っちゃってて」
『ホン直し! そんなこと要求したのか! あの子は!』
「はい……」
『それはだめだ。カレン。君も突っぱねるべきだった。あの子は玄人はだしとはいえ、要するにただのアマチュア素人だからね』
 カレンは、リチャードは息子の才能を見抜いていたのではないかと思った。それを言うと、リチャードはまた笑った。
『これでも俳優業で食ってきたんだよ。カレン。あの子に才能がないとは言わない。けれど、それはイミテーションの宝石なんだ』
「はぁ……」
『私はお前はものにならんとリックに言ったら、あいつめ、医者になりおった』
 リチャードの無邪気な自慢にカレンもふっと笑った。
『でも――昔の夢が忘れらえれないんだな。あの子は。ガキなんだ。要するに』
「わかった気がします。そして――リックがリチャードさんに似ていることも」
『ああ、よく似ている。だから、困ったと言ったんだ』
 リックは医者の才能はあったのだろうか――と思った。脚本家になるより、医者になる方が遥かに難しいだろうに。
『脚本を書くにしても、趣味の範囲にとどめておけばいいものを――プロの脚本に手を入れるなんて言語道断だ!』
 リチャードは激しく言った。
 それでは、リチャードは自分をプロの脚本家と認めてくれたのだ。あの、黄金コンビのリチャード・ヘンリー・シンプソンから――。嬉しい。涙が出そう。
 ――カレンは鼻を啜った。
「ありがとう、リチャードさん。そんなことを言ってくださったのはあなただけです」
『クロエならいいんだ。それを仕事としているのだからな』
「うん……うん……」
 カレンは盛り上がった涙を指で拭った。涙と鼻水で自分の顔はさぞかしぐちゃぐちゃになっているであろう。
『クロエは売れる作品を選ぶ。愚息の才能を少しは買ってくれたのは嬉しいが、それだったら、リックは医者を辞めて脚本業に専念すべきだった。あの子は昔から欲張り過ぎるんだ。脚本と医者の仕事と――。医者になったのだって、名声を得たかったからに他ならないよ』
「そんな……リチャードさん、自分の息子さんをそんな風に――」
『いや、私にはわかるんだ。あの子は正しく私の負の部分を受け継いでいるからね』
「そうなの……」
 リチャードとリックの親子喧嘩にはなるべく関わりたくないなぁと思いつつもカレンは相槌を打った。
『どちらかを選んで一生懸命やる。それが人の道だと思うけど、どうかね?」
「はい! 私もそう思います!」
 私はやはりリチャードの味方だとカレンは思った。そして、カレンの味方はリチャードで――。
 リチャードはずっとカレンのよき理解者であり続けた。
 カレンはリチャードとこのまま話していたいと思った。けれど、もう夜で――リチャードはもうすぐ寝る時間だろう。
「おやすみなさい。リチャードさん」
『ああ。話したいなら、明日龍一郎の教会に来なさい。私もお茶会の時出席するから――』
 それを聞いて、カレンはくすっと笑った。
『どうした? カレン』
「だって――リチャードさんは教会が苦手だったって聞いたことがありますから」
『まぁなぁ。しかし、可愛い従妹の夫が牧師では教会と無縁ではいられないだろう』
「龍一郎さんはバリバリの牧師ですものね」
『まぁ、龍一郎の説教の間は睡眠の時間に充てて』
 リチャードの冗談にカレンは「きゃはは」と笑った。リチャードは洒落のわかる老紳士と成り代わっていた。
(リチャードさん――あなたが好き)
 リックにも恋に落ち、リチャードさんに未練を残し――どちらかを選べと神に言われているのは実は私の方なのだと、カレンは思った。
 でも、今の時点ではどちらも選べない。カレンが恋をするには、リチャードは年上過ぎる。
(私、もっと早く生まれていればよかった――)
 けれども、後の祭りである。カレンがぐずぐずしていたからいけないのだ。どこか適当な夫婦を探して早く生んでもらえば良かったのだ。
 まぁ、いいか――リックのアルマーニにシャンパンをぶっかけた時点でもう恋は終わったのだから――。こんなじゃじゃ馬、リックの方でお断りだろう。
「電話、終わった?」
 クロエの声がした。
「あ、はい――じゃリチャードさん。また明日」
 カレンは電話を切った。クロエは怖い顔で時計を指さす。時間を考えろということだろう。
 今度の電話は少々気が重いものだった。カレンはボタンを押す。
『はい、シンプソンですが――』
 今度は息子の方。
「あ、あの……今日はシャンパンをぶちまけてしまって申し訳ありませんでした」
『ああ、カレンか。――いいんだよ。僕は今、最高の気分だからね』
「最高の気分?」
 好奇心を抑えきれずにカレンは尋ねた。脚本を書こうなんて人種はおしなべて好奇心が並より多い。
『ああ。友人――いや、親友が来てくれてるんだよ。……おいで、レオ』
 電話の向こうで、いや、いいって、とか、いいからいいから――という台詞が雑音に交じって聴こえてくる。――やがて、聞いたことのない男の声がした。
『や、やぁ……』
 この青年(だろう)が、レオという男なのだろうか。
「こ、こんばんは……」
『あー、もう貸してくれ。話が進まない!』
 リックが受話器をひったくったようだった。レオを出してはみたものの、このままでは埒が明かないと思ったのであろう。
『……今のはレオ・オブライエン。世界一美しい男さ!』
「そんなこと言われても――」
『ああ、電話だったね。うっかり失念してたよ。銀色のふさふさした髪でさ、均整の取れた体と言ったらもう、芸術品だよ』
「リック……」
 もしかして、リックはゲイなのではあるまいか。今はレオ・オブライエンとかいう男に夢中になって――。
 リチャードと分かり合えないのも無理ない気がする……。
「レオさんのことはどうでもいいんです。ホンを返してください」
『台本のことかい? 僕も今同じホテルに泊まってるんだ。ラウンジで会おう』
 ホテルのラウンジでリックと会うのは今日で二度目だと思いながら、カレンはクロエに言った。
「リックがラウンジで待っているそうなの」
「あらそう、行ってらっしゃい」
 クロエはパックをしていた。
「あまりじろじろ見ないでね」
「――わかったわ」
 パック中の顔を見られるのは、例え親しい者相手であってさえ、嫌なものだろう。化粧だって同じだ。カレンはまだ普段はすっぴんで通しているけれども――。いや、今は泣いてメイクがぐしゃぐしゃになった後だ。メイクだけは落としておこう。
 台本を返してもらうだけだ。すぐ帰れるだろう。そう希望的観測を持って、カレンは部屋を出た。さっきの服を着て。
 ラウンジに着くと、リックはすぐわかった。女の人に声を掛けられていたのである。『NO』とかそんなことを言っていた。
「あ、カレン」
「リック、ホンを返してもらいに来たわ」
「それよりも――おいで。レオ」
 その青年を見た時――カレンの目は彼に釘付けになった。
 リックと同じくらい……いや、リックよりもっと美しい青年が立っていた。
 長い銀髪は緩やかにウェーブしている。ロシア貴族のようないでたちで、その青年は立っていた。カレンが我に返ってリックを見ると、リックは得意げにふんぞり返っていた。

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2021.11.01

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