田園交響楽 6

 カレンには、台本のことより気になること――或いは気にしなければならないことがある。
 ――ギルバート・マクベインのことである。
「リック。ギルバートさんは?」
「ああ。一旦退院したよ。というか、退院させないと窓から落ちて死んでやるぞと脅されたんじゃさぁ……」
 ギルバートならあり得る。こんな時に不謹慎だと思われるかもしれないけれど、カレンはくすっと笑った。ギルバートは散々ごてたらしい。
「彼には看護婦さんが一人、ついている。まぁ、お世話役だな。ギルバートさんも役得かもね」
「彼は手術はしないの?」
「――手術しても手遅れだと本人は言っていた。それよりも好きなことをやって死にたいと。――食べないの?」
「え? ああ、戴くわ」
 随分豪勢な夕食だと思った。カレンはシャンパンの泡の立つグラスを取り上げた。リックもそうして、
「君の瞳に乾杯」
 と言った。カレンが噴き出した。
「やぁ、僕なりのジョークのつもりだったんだがね。受けてくれて嬉しいよ。台本見せてくれるかい?」
 カレンはかなり直しの入った本をリックに見せた。その間にシャンパンを一口。快い甘さが鼻孔を擽る。
「いいね。前のよりずっといいよ。僕はこの話、好きだなぁ」
 カレンは前の話の方が好きだったので複雑だった。自分はただ、リックの気に入るように台本を直しただけだった。それは機械的な仕事である。
 リックは鏡に映った自分の姿に酔っているようだ、とカレンは思う。でも――仕方ない。カレンはその条件を飲んだのであるから。
 それよりも、客の視線が自分に集まっているように感じた。自意識過剰とわかってはいても。
(もっと上等な服を着てくれば良かったわ)
 それか、クロエにスーツを借りれば良かったか――。けれども、スタイル抜群の彼女にカレンは劣等感を抱いていた。
(クロエと同じ服着ても、クロエになれる訳でもなし――)
 カレンは看板メニューのひとつである大根のステーキにナイフを入れた。瑞々しい大根から肉汁が溢れ出る。――美味しい。大根が牛肉の肉汁を吸って旨くなっているのだ。
「リックはいい店をご存じね」
「ここには長いですからね」
 暗い夜空を飛行機が飛んでいた。
「リックは病院の院長――でしたっけ?」
「次期院長です。もうすぐなれますよ」
「あれ? 院長だと聞いたような気が……」
「そうですか? だとすると光栄ですね」
 リックはにこやかに笑っている。リチャードの若い頃を見ているようで、カレンはどきっとした。
「カレン――そんなに見つめても、僕はリチャード・シンプソン・Jr.……父ではありませんよ」
「あ、そ、そうよね……」
 こんな当たり前の事実に何故慣れないのだろう。カレンは震えながらも大根の切れ端を口にした。
「高いんでしょうね。ここ」
「高いですよ」
 さも、あなたの為に用意しましたという態度。カレンはあまり好きではなかった。それがご不満だったら、違う女と行って欲しい。
 十月亭の方が好きだったな――。
 カレンは思う。女性オーナーエレインのこまごました気働き。そして何より――
(あそこには、リチャードさんがいた)
 ギルバートもいつまでもつかわからない。リチャードだってもう年だ。リチャードはいい男に変貌していたが、外見はリックの方が好みだった。
「カレン。どうしたの?」
「え? いえ、あの……」
 何と言ったらいいかわからない。
「今の君はとてもしおらしいね。僕の好きなタイプだよ――昼間は悪かったね。君が――僕に逆らうなんて……」
「はい?」
 自分が怒ったのを逆らったと言っているのだろうか。この人は。どうも、リックには自分が下に見られているようでならない。
「逆に新鮮だったよ。ありがとう」
「リック。あなたが今まで付き合ってた相手、皆あなたに唯々諾々と従ってたの?」
「――まぁ、そうだね。僕に噛みついて来た女性はいなかったね」
「じゃあもっと新鮮な体験をさせてあげる」
「――何かな?」
 カレンはびしゃっと一本何十万円もするシャンパンをリックにぶっかけた。
「さようなら、リック」

 カッカッカッ。ヒールの足音を立ててカレン・ボールドウィンは歩道を行く。
 何であんなことをしたんだろう。リックは何も悪いことをしていないのに――。だが、カレンは許せなかったのだ。リックの不特定多数の彼女の一人になるなんてごめんだった。
(リチャードと話したい――)
 カレンの錨となるのは結局、リチャード・シンプソン――頭を白髪に占領されたリチャード・シンプソンだった。
「ただいま、クロエ」
「――何があったの? まぁ、大体のところは聞き及んでいるけど」
(リックってば、クロエに喋ったのね)
 カレンはベッドにカバンを放り投げた。自分もそこに寝転がった。
「リックとのデートは疲れるわ」
「あ、そういやあなた、台本忘れてきたでしょ」
「あらやだ。でも、あれはリックの本だし――」
「取り戻してきなさい!」
 クロエのバックに龍が見える。いっぱしの女丈夫のカレンもこの時は些か怯んだ。
「全く最近の若い娘と来たら――衝動的にシャンパンをダメにするわ自分の仕事は忘れるわ――」
「クロエだって若いじゃない」
「ありがと――という気もしないわね。明日、またリックに会いなさい。会う口実が出来たわよ。良かったわねぇ」
「あんな人――」
 カレンは唇を噛んだ。
「唇。血が滲むわよ。リップクリーム塗ってあげるから」
 クロエの指がカレンの唇を辿る。カレンは我知らずドキドキした。
(わ、私――レズではないと思っていたけれど――……)
 そうだ。クロエ・J・バーンズは同性から見ても素敵な女なのだ。
「あ、私――ギルバートさんの話をしたの。ギルバートさん、退院してるって。病院側も好きなことをさせるつもりみたい。――女性が一人ついているようだわ」
「まぁ、美女なんでしょうね。お金持ちは得ね」
「美女かどうかはわからないけど……」
「美女よ。カレンに目をつけるくらいですもの。ギルバートさんは」
「私なんてちっとも美人じゃないわ。クロエの方が――」
 そこまで言った時、クロエが押し倒して来た。キスを奪われる。
「く、クロエ――」
「私がこんな風に行動を起こすくらいには魅力的よ。あなた。――私がバイだってこと知ってた?」
「し……知らなかった……クロエにとって私は友達だとばかり――」
「友達よぉ。でも、友達って言ってもいろんな人がいるでしょ?」
 クロエからは酒の匂いがした。
「クロエ、もしかしてキス魔――?」
「まぁ、そうかもしれないわね。あなたも飲む?」
「い、いらない……」
 カレンが慌てて言う。クロエが酒に飲まれる質だとは今まで知らなかった。
「って、それ、ビールじゃないの! ビールで酔っ払ったの? クロエ……」
「ビールでも酒でしょ? 飲んだのビールだけじゃないし。――ごめんなさいね。今、ちょっと感情の箍が外れているの。まぁ、ドラマとかによくある、酔っている間のことは覚えてないなんてことはないから安心なさい」
「もう――クロエ、私の操奪ったら責任とって結婚しなさい」
「あら、リックのことはもういい訳?」
「あんな男――人を人とも思っていないのよ」
「じゃあ、リチャードさんは? 父親の方の」
「う……」
「それから、私がカレンに手を出しかけたことを知ったら、リョウに殺されるかもしれないわねぇ。ま、やったのはキスだけだけど、あの坊やは純粋培養のお坊ちゃんって感じだからねー」
 クロエがルンルンと洗面室へ向かう。もしかしたら今日は別の部屋に泊まった方がいいかもしれない。幸い叔父のロナルドからは沢山お金をもらってきたし――そう考える程度にはカレンも貞操の危機を感じていた。

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2021.09.10

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