田園交響楽 5

 カレンは台本を修正しながら泣いていた。外はとっぷりと暗くなっていた。
「カレン……あなたには酷な注文させたわね……」
 クロエがふわりとカレンを抱き締める。クロエの豊満な胸元からシャボンの清潔な香りがした。
「クロエ……」
 カレンはクロエに甘えてしまいそうになる自分を叱咤した。
「大丈夫よ、クロエ。そりゃ、こんな経験はしないに越したことはないけど、これはいつかきっと実を結ぶわ」
「カレン……」
 クロエが力なく笑った。カレンもつられて笑う。
「だから、大丈夫よ、大丈夫、大丈夫。大丈夫と言っていられるうちは大丈夫……」
「――無理しないでね。カレン」
 心の方がズタズタだったけれど、リックはカレンの為を思ってやったのだと信じることにする。例え、それが間違った方向性だとしても。田園交響楽――またジッドの著書のタイトルが頭に浮かんだ。
「私、力になれなくてごめんね」
「いいのよ。それより、髪乾かして来たら? いくら今日が暑くても風邪ひくかもしれないわよ」
「そこまで気を回せれば、大丈夫ね。――あら、また大丈夫って」
 二人はくすくすと笑った。友達同士の秘密の笑いで。
「あら、電話だわ」
 電話がリンリンリン――と鳴っている。
「私が出る?」
 クロエが訊いた。カレンは言った。
「私の用かもしれないでしょ?」
「私への電話の可能性の方が高いわよ。――私が出る」
 クロエは一言二言話した後、泥水を飲んだ時のような妙な顔をしてカレンに言った。
「――あなたによ、カレン」
「誰から?」
 もしかして、リチャードだったら嬉しいな、と思いつつ訊いた。けれど、現実はなかなかそう上手くはいかない。クロエがますます心配そうな顔をした。
「――リックからよ」
「どうしてここの番号がわかったのよ」
「ホテルの番号言ったでしょ」
「そうでした」
 我ながら実際的には出来ていないなぁと思いつつ、カレンは受話器を取った。心臓がバクバクする。またひどいことを言われやしないかと――。けれど、好奇心の方が先に立つ。
「もしもし――?」
『もしもし。カレン?』
「はい。――リックね」
『僕、あんまり勝手でした……どんなに拙いホンでも、もうちょっと傷つけない言葉遣い?というかそういうの? 出来たら良かったな――って』
(そういうところが腹立つのよ。何さ。リック、アンタの方が年上だからって、威張らないでちょうだい)
 リックはきっと嫌われ者だろうと思う。けれど――そういう人ほどちやほやされるのだ。それに、確かにリックは、リチャード・シンプソンの息子ということで甘やかされたにしては、まずまず性格良く育った方だった。
(リチャードさんの息子に生まれたことがリックの不幸ね……)
 誰かがいつか言っていた言葉。もしかするとクロエだったかもしれない。
『ねぇ、カレン』
「は、はいっ」
 カレンは飛び上がった。
『今から――会えないかな』
「え、今はちょっと……」
『忙しい?』
 低い良く通るバリトン。
 あなたのせいで出来上がった本を直してるんじゃない。そう言いたかった。だが、言えなかった。
「どこ?」
『君のいるホテルに向かっている最中なんだ。今日はもう上がったし、自由の時間も出来たし、君に逢いたくて――その、台本のこともあるし』
「あ……あのホンね」
『どこまで進んだか気になってね』
 修正すること前提なのね。でもいいわ。許してあげる。我ながら単純だけど。
 ――だって、リックがあまり、リチャード・シンプソンに似てたから……。
「ねぇ、リック。アンドレ・ジッドの田園交響曲って知ってる?」
『いいや。学生の頃は暇にあかせて読んだけど、最近本は読んでないなぁ。その頃に読んでないとすれば――多分読んでないな。うん。読んでない』
 あら素直。
「やぁね。アンドレ・ジッドぐらい読みなさい。仮にも牧師の親戚でしょ? あなた」
 カレンは居丈高になった。
『龍一郎さんのこと? それだったら遠い親戚だよ。父の従姉の旦那さんなんだから、ええと……赤の他人じゃないか』
「そ、そうね……とにかく田園交響楽は読みなさいよ」
『――わかった』
 リックは特に気を悪くした様子もなかった。カレンだったら怒るところだったかもしれない。――いや、それほど感情の沸点は低くないつもりだが。
 ――カレンは電話を切った。
「リック、何だって?」
「デートのお誘い」
「で、行くの?」
「行くわよ。プロというものがどんなものか、見せつけてやんなきゃ」
「もう全部直したの?」
「四分の三は」
 クロエが呆れたようにあんぐり口を開けた。
「リックも相当なもんだと思ってたけど、アンタもすごいわね。カレン。――それで、決闘に行くの?」
「まぁ、そんなとこ」
 決闘と言うと、前にギルバートがリチャードとカレンを巡ってした決闘したことを思い出す。
 そういえば、ギルバートはどうしたのだろうか――。
(あ、ギルバートさんのこと、忘れてたわ)
「どうしたの? カレン」
「クロエ、ギルバートさんのこと、覚えてる?」
「勿論じゃない」
「私……忘れてた」
「ギルバートさんに対して随分じゃない」
 クロエはペディキュアを丹念に塗っていた。頭にはタオルを巻いたままで。
「ま、それほど恋というヤツは思考力を奪うってものなのね」
「こ……恋っですって?!」
(これが恋?! 私はリチャードさんが初恋だったのよ。そのはず――)
 銀幕で喋る彼を観て、こんなに美しい人が世の中にいるのか、と感心したのだった。まだ子供だったけれど――。
 アルバート・オブライエンはもっと綺麗だったけれど、カレンの好みには合わなかった。何だか、飾り立てて着飾った女みたいで――。
(ああいうの好きな人いるんだな)
 ――と、思うくらいで。
「ほら、さっさと準備なさい。それから、もうちょっとギルバートさんのことを思い出してあげてね」
「うん……リックはラウンジで待っていると言ってたから」
「何なら帰って来なくてもいいわよ」
 クロエがこそっと耳打ちをするのへ、カレンは羞恥で頭が破裂しそうだった。なんだか、体中が壊れやすいガラス細工かゴム風船のような気がして、妙な気分になった。
「何なら、スーツ貸してあげてもいいわよ」
「いらない。クロエ。適当に食べてて。――行ってきます」
 バタバタと慌ただしく出て行くカレンの背中に、
「若いっていいわねぇ」
 と言う声が聞こえたような気がした。

 リックは約束通りホテルのラウンジに来た。カレンは、ドキドキと高鳴る心臓を抑えるのに必死だった。――リックはちゃんと正装だった。
 医者と言う仕事は忙しいだろうに、自分に会いにわざわざ来てくれたのだ。リックがにこっと笑った。
 その瞬間――カレンは、再び、恋に、落ちた。

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2021.08.13

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