田園交響楽 4

「文句言っていい?」
「どうぞ」
 クロエの前でカレンはリックのことを散々にけなした。クロエが眼鏡の奥の目を細める。まるでカレンの本音を見透かすかのように。
「そんなに嫌だったの?」
「そりゃあもう!」
「アンタ――それ、リックがなまじリチャードさんに似てたから期待したんじゃないの? ――リックがリチャードさんみたいな人であることを」
「は?」
 何でそこでリチャードの名前が出てくるのだろう。クロエが仕方なさそうに溜息を吐いた。
「取り敢えずココア持ってくるわね。体があったまれば頭も冷えるわ。それともホットチョコレートの方がいい?」
「――ホットチョコレートを」
 ホットチョコレートの甘い匂いを嗅いで、カレンはようやく落ち着いた。
「ありがと。――ああ美味しい」
「カレン」
 クロエが髪をおろした。そうするとフランス映画の女優に似てくる。
「あなたは――リックにリチャードの幻影を見たのよ」
「え?」
「私がわからないと思うの? アンタ、リチャードを愛しているのよ」
「はぁ?」
 カレンは自分でも間の抜けていると思う声を上げた。
 確かにそう思ったこともあった。けれど、リチャードは悪い男だ。それに、年齢も離れ過ぎている。いくら美貌のリチャードでももう六十は越えている。
 だけど、リチャードの美点もカレンはよく知っている。悪い男だけど――優しい。
 それはリックの持ち合わせていない長所でもあった。
 リックは、一見優しい人のように見える。けれど、そこには自分が正しいと信じている人間の傲慢さがあった。
「リックって傲慢なのよ」
「私から見ればアンタだって傲慢よ。ただ、言いたいことはわかる」
「ええ」
 クロエはいつも、いつだって正しかった。その正しさがいつか敵や災いを呼び寄せやしないかと、カレンは本気で心配している。だが、まぁ、クロエのことだ。何か起こっても冷静に対処するだろう。そう出来なかったらそれまでのことだ。
「私も人のことは言えないけどね」
 ホットチョコレートを一口啜ってクロエは言った。
「まだあるわよ。これ」
「ありがとう。いただくわ」
 カレンがコポコポとホットチョコレートを魔法瓶から注ぐ。クロエがそれに鋭い目を当てた。
「残しといてね」
「勿論」
「――アンタ、リックに幻滅した?」
「幻滅って訳でもないけど――そうねぇ。性格はリチャードさんの方が好みかしら」
「それでも、リックは外見はリチャードさんよ」
「そうよ……わかってるわ……わかってるのよ……」
「…………」
 クロエは何も言わない。言えないのだろう。これはカレンの問題だから。
(リチャード・シンプソン・Jr! あなたが私を愚かなジェルトリュードにするの!)
 リチャードに会いたい、と不意にカレンは思った。けれど、まだクロエともいたい。心は千々に乱れる。
 ああ、もっと早く――三十年は早く生まれて来ていたなら!
 けれど、そしたらリチャードに恋して捨てられてそのままになったのではないのだろうか。――ロザリー・リトルトンのように。
「カレン、それ飲み終わったら勝手に朱を入れられたという原稿を見せてくれる?」
 クロエが手を出す。
「え、いいけど――」
 カレンは甘い液体を飲み干すと、バッグから紙の束を取り出した。勿論、直筆のものではない。コピーしたものである。
 クロエはカップ片手にそれを眺めている。ふと、手が止まった。
「ふぅん、言うだけのことはあるわね。――この人、本当に素人なの?」
「医者だからそうじゃないかしら」
「医者でも作家になった人ぐらいいるわよ。――なるほど。ここは当たっているわね。ああ、そう言っても気を悪くしないでね。カレン」
「クロエ……あなたの気遣いは嬉しいわ」
 カレンはクロエを責める気にはなれない。クロエはプロフェッショナルだ。きっと幾多の脚本を見て来たであろう。だから、リックも実力はあると言う訳だろう。
「言っとくけどね、カレン。――リックは玄人はだしよ。でも……アンタの方が才能はあるわよ。リックには根本的なところが見えていないもの」
「リックはどうして脚本家にならなかったのかしら……」
 窓の外を見ながら、カレンが呟く。
「あら――言わなかったかしら。カレン……あなたには稀有な才能があるわ。でも、一般受けするのはリックの方でしょうね」
「はっきり言うわね。クロエ……」
「仕方ないわよ。これが私の性分だから。言葉をオブラートに包むのが苦手なの。だから、私も脚本家になれなかったのよ」
 クロエが脚本家になれなかった原因はどこか他にあるんじゃないかとカレンは思ったが、口には出さなかった。脚本家になる資格なんて――カレンにもよくはわかっていないのだ。リチャードはわかっているだろうか。名作にも駄作にも出演して来た彼なら――。
 やはり、経験がものを言う世界もあるということをカレンはまざまざと思い知らされた。――カレンには経験が足りない。才能は――あるとは思っているが。
「あのね、カレン。あなたはまだ発展途上の人だわ。まだ若いしね。リックに腹を立てるのもわかるわ。けれど、こんな連中がこれから先どんどん出て来るわよ。あなたは――悪いけど世間知らずよ。だけど、その分すれてないけどね」
 カレンは黙って俯いた。
 それがクロエの性格だとわかってはいるけれど、カレンは彼女に黙って話を聞いて欲しかった。
 優れた脚本に必要な物――それは経験? 情熱? 愛?
 カレンはぐるぐると考えを巡らす。――リックの脚本には愛が足りない。
 そうだ――クロエは彼を偽善者と言ったが、リックには愛がないのだ。彼を愛した人はさぞかし不幸だろう。
「クロエ、リックには愛がないわ」
「んー、私はそうは思わないけれどね……愛、というか、まぁ、自惚れはあるかもしれないわね」
「リックには恋人はいるのかしら……」
「いるわよ。でも、あなたには言わない方がいいわね」
「どうして?」
「私の気のせいだったら困るから」
 あのリチャード・シンプソンの息子が変な女と付き合っていたら、スキャンダルになるだろう。――クロエは、自分がその火種になりたくはなかったのだろう。
「――まぁ、確かに困るわね」
「この直した部分を元に書き直すことは出来る? カレン」
「造作もないこと――と、いつもは言うけどねぇ……今回ばかりは荷が重いわ」
 カレンがふぅ、と息を吐いた。リチャードさんなら気にするなと言ってくれるだろうが……。
 取り敢えず朱の沢山入った紙の束をクロエから渡してもらう。もう、カレンの脚本はズタズタにされている。カレンの目に涙が滲んだ。
(ごめんね、ごめんね……)
 カレンは自分の作った世界観や登場人物や物語に謝る。これから、リックのアドバイス――と言えるかどうかわからないが――を元に書き直さなくてはならないのだ。しかも、出て来ないはずの登場人物までいる。
 他の人の書いたパロディ作品を見た作者というのはこんな気持ちになるのだろうかとカレンは嘆息した。今回のはパロディと言うには真面目で真摯だが――。いや、パロディを書く人だって真剣なのだ。
 けれど――それは人の世界を乗っ取ることで、簡単には許されないことだとカレンは思う。
「カレン、どうしたの? これで涙を拭いて」
 クロエがハンカチを差し出す。香水の匂いがした。何の香水かなんて、普段自分の匂いにあまり構いつけないカレンにはわからないが。
「ありがと、ありがと、クロエ……」
 カレンはピンクの無地のハンカチを目に押し当てた。
「カレン、プライドがズタズタになったのはわかるけど……」
「ううん。ズタズタになったのはプライドじゃないわ。私の書いた人間達よ……これじゃ、別人だもの。リックが大元のところばかり変えてくれたものだから」
「そこまで架空の人物に肩入れ出来るなんて立派なものだわ。私にはできないもの。――だから、私は脚本家になれなかったのね」
「クロエは有能だから書けるわよ」
「ううん」
 クロエは首を横に振る。
「私は――無理よ。技術はあるけど、それだけ。あなたのような愛はないわ。人物に対するね。だけど、脚本には携わっていたい。だから、私は版権代理人になったの」
「クロエ。あなた、立派よ……」
「ありがとう。版権代理人の仕事もそれはそれで面白いからいいわ。あなたのようなダイヤの原石を探り当てることも出来たしね――リックに邪魔されたけど。私も前の方が好き」
「私が直してみせるから見ててね、クロエ」
「わかった。今日は暑いわね。――シャワー浴びて来る」
 クロエが浴室にいる間に、カレンは涙を振り遣り、木っ端みじんにされた物語の欠片を集めてひとつの物語にするという作業に取り掛かる為に、リックの書いた文を熱心に読み始めた。

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2021.06.29

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