田園交響楽 3

「君は確かに凡百の脚本家とは違う」
 リックが静かに言った。
「だからこそ、僕は君に脚本家として成長してもらいたいんだ」
 カレンの頭にかっと血が上った。これは初めての経験だった。今まで仕事の上でどんな酷いことを言われようと、その場ではむかっ腹を立てても、『これは必要なことだったんだ』と流してきた彼女が。
「あなたは脚本に関しては門外漢でしょう。――私、帰ります」
「もう食べないのかい?」
「ええ。自分の分は自分で払います。――私、あなた嫌いです。嫌いな人におごってもらう程落ちぶれちゃいませんので」
 リックは少し困ったような顔をした。驚く程リチャードに似ている。リチャード相手ならば――こんなに腹も立たないだろうに。
 リックは訳知り顔の半可通だ。カレンはそれが嫌だった。
(リチャードさん……クロエ、リョウでもいい。誰か私の話を聞いて――)
 カレンは街をどんどん通り過ぎていく。自動車がけむったい排気ガスを出しながら走っている。
(リチャードさん……)
 少しでも彼の息子のリックに心を移したことをカレンは後悔した。彼女の顔は涙でぐちゃぐちゃになっていた。けれど、自業自得かもね――と、カレンは自嘲した。

「リチャードさん……」
「どうしたね、カレン。さぁ、入って」
 リチャードは物のゴタゴタ並べられている部屋にカレンを案内した。
「リックは本当に脚本家になりたかったの?」
「何か言われたのかい?」
「ええ――」
「何をどう言われたんだい?」
「――言えないわ」
 カレンは古ぼけたソファに座った。
「あいつも――思い込みが激しいからなぁ。多分、自分は正しいと頭から信じ込んでいる」
「ええ。私があの人の嫌なところをあげるとしたらその点なのよ」
「――正論には敵わないからなぁ。我が子ながらどうしてあんな風なのかと思うよ。――何か飲む? コーヒーがいいかい? 紅茶がいいかい?」
「――コーヒーを」
「私は龍一郎の性格も苦手だが、あまり嫌だとは思わない。若い頃のことは忘れてしまったし――龍一郎は優しいからね。少なくとも、自分が如何に至らないかをよく知っている」
「龍一郎さんは私も好きだわ」
 カレンが微笑んだ。
「リョウだって――リックに比べれば天使みたいなものだわ」
「あいつを――息子をリックと呼んでいるんだね。……あれはカレンが気に入っているんだ」
「私もあの人に恋したわ。――こんなことが起こるまでは」
「有象無象に酷いこと言われるより、身内に批判される方が、辛いな」
 リチャードは暖かい視線をカレンに向けた。それは、共感という目だった。
(それでは、この人もそうなの? 俳優として演じて――身近な人に批判されて……)
 リチャードの身近な人。それは、アルバート・オブライエン辺りだろうか。けれども、アルバートとは袂を分かったはず。となると、ケヴィンか。しかし、ケヴィンも優しい。リチャードが傷つかない配慮はしてくれるだろう。
 しゅんしゅんとお湯が沸いた。
 ここは聖ファウンテンチャーチ。リチャード専用の個室である。彼がいない間はいつも彼の従妹アイリーンが掃除をしていた。ここはアイリーンの夫、柊龍一郎の城だ。龍一郎はリョウの父親でもある。
 リチャードはてきぱきとコーヒーを淹れる。
「これでも飲んで温まってくれ」
「ありがとう」
 そう言うと、カレンは自分がまだ空腹であることに気が付いた。
(満足に食べないうちに出て来ちゃったからなぁ……)
 そのことまでリックのせいにする気は、カレンにはない。これは自分自身の問題だ。
 コーヒーが香り高く湯気をたてている。カレンはマグカップを手で囲って啜った。
「私はこうなるんじゃないかと思っていたよ」
 リチャードが穏やかに言った。
「私にはどっちの味方も出来ない。リックもカレンも私にとっては大事な人だし、どちらの言い分もわかるような気がするからなぁ……あの子が君に何を言ったかは大体想像つく気がするよ。そして、君が何に対して腹を立てたのかも」
「どうして?」
「どうしてって――リックは曲がりなりにも私の息子だし、君は、私の親友だし――」
「リチャードさん――」
 カレンはリチャードに飛びつきたい衝動に駆られた。けれども、それは止めにした。そうすると、自分はあまりにも節操がないような気がして。
 これは『田園交響楽』じゃない。カレン・ボールドウィンは決してジェルトリュードじゃない。
 リックなんて――嫌いだ。
 その時、電話が鳴った。
「ああ、もしもし。ああ、クロエか。はい。カレンだったらいますけど――カレン、君にだ」
 リチャードがカレンに受話器を渡す。
「はい。お電話代わりました――」
『やっぱりそこにいたのね』
 電話から響くクロエの声。
「どうしてわかったの?」
『リックがしょげてたわよ。――カレンを怒らせてしまったって。それに、心当たりのところにいろいろと電話したのよ、私』
「ど……どこに……」
『アリスの家とか、ギルバートさんが入院している病院とか。あと、ここの教会ね。最初は龍一郎に繋がったんだけど、リチャードの部屋を教えてくれてね』
「あ、ありがとう……」
『お礼だったら龍一郎に言いなさいよ。リックはね――私はさっきはああ言ったけど、実は全然反省してないわ。僕が正しいことを言ったから、カレンは怒ったんだって。正しいことは人を怒らせるって』
「まぁ!」
『最初はいい人だと思ったんだけどねぇ……あれは偽善者よ。世界で一番厄介な人種』
「ええ……」
『帰って来なさい。アンタの話も聞いてあげるから』
「あ、ありが……」
 ぶわっとまた涙が出て来た。クロエはどうしてこんなに優しいのだろう。友達だから――だろうか。
『泣かないでよ。どうしていいかわからなくなっちゃうじゃない』
「ご、ごめ……」
『――いいわよ。いいわよ、泣いても。アンタの苦しみなんて、リックのような人種には一生わかんないんだから』
「うん……」
『それとも、今日はそこの教会に泊まらせてもらう? 宿泊施設もあるんでしょ? そこ。四畳半だって人間は寝られるんだから』
「私――ホテルに帰る」
『うん、うん。待ってるから。それじゃ』
 電話が切れた。
「クロエは――何だって? もし話したくなければ話さなくてもいいけど」
 無限の優しさを込めてリチャードが訊く。おお、リチャード!
(私はリチャードさんのようなお父さんが欲しかった。リックのことも……実は妬んでたのかもしれない……)
 カレンはリチャードの広い胸にしがみつき、わぁわぁ泣いた。まるで、彼が実の父であるかのように。リチャードはカレンの頭を撫でた。
(お父さん……)
 カレンの父は亡くなった。こんな父性を感じられる存在はリチャードの他にはもういない。カレンは父のことを思い出していた。
(お父さん、お母さん――支えてくれてありがとう……)
「カレン、ほら、涙を拭いて」
「――心配おかけしてごめんなさい。ティッシュもらえますか?」
「どうぞ。そこにあるよ」
 カレンは、チン、と鼻をかんだ。
 そこに――リョウが入って来た。ドアが開けっぱなしだったからだ。
「リチャードさん! ――って、どうしてカレンがリチャードさんの部屋にいるの? しかも泣きながら」
 リョウは胡乱げな目をリチャードに向ける。
「リョウ――誤解だ」
 そういう割には、リチャードはいたずらっぽく微笑んでいる。
「私が――リチャードさんに甘えさせてもらってたの。リチャードさんは父親代わりだから」
「そっか。そうだよな。――でも、リチャードさんはカレンに恋してるんだよ」
 リョウの言葉に、カレンは、「まっさかー」と言って笑った。

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2020.05.30

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