田園交響楽 2

 カレンとクロエは食事が終わるとホテルを出て別れた。クロエは忙しいのだ。有能なのもたまに困るようだ。
 リックに電話しようか――カレンは彼の電話番号を知っている。けれど、今は忙しいだろうか。評判のいい医者らしいから――。
 ――まぁいい。今はリチャードに電話しよう。リックの父のリチャードである。
「はい、もしもし。聖ファウンテンチャーチですが――」
 リチャードの穏やかな声が聴こえる。
 彼が『かつてのスターに花束を』の主演男優(予定)のリチャード・シンプソンである。ロザリー・リトルトンとはよく共演して黄金コンビと呼ばれていた。
 ロザリーの晩年は不幸だったが、その娘エレインはケヴィン・アトゥングルから『十月亭』という店を譲り受け、そこの女主人として働いている。ロザリーと違ってしっかりした娘だ。
 確か、エレインはロザリーの最初の夫の娘だった。リチャードとも仲が良く、カレンもエレインが好きだ。
 リチャードはいろいろな人物に囲まれ、幸せに暮らしている。
「リチャードさん。もしもし、カレンですが――」
「やぁ、カレンか。リョウは出かけてていないけど――何でも白い油彩の絵の具が足りなくなったとかで買いに行ってる」
「そうなの。でもいいの」
 カレンはほっとした。カレンは自分に熱をあげているアーサー・リョウ・柊という青年は少し苦手だった。それは、好いてくれるのは嬉しいし、リョウは素敵な男性ではあるのだけれど。
「あのね、リチャードさん、私、リチャードさんの息子さんに会ったの」
「ほう。どうだったかね」
「何だか若い頃のリチャードさんを見ているような気がしました」
「あいつは医者なんかやってるが、本来は脚本家志望だった。さぞかしカレンに刺激を受けただろうね」
「ええ。そう言ってました」
 カレンはリックのことを思い出していた。真っ白な歯、唇からでる爽やかな息。高い鼻梁。澄んだ青い瞳。
 カレンは――自分は今までリチャード・シンプソンが好きなのだとばかり思っていた。けれど、本当は若いリチャードが好きだったのだ。銀幕に出ていた頃の。
(こういう話、どこかでなかったかしら――)
 田園交響楽。アンドレ・ジッドの小説を思い出していた。細かいところは全然違うし、そもそもカレンはリチャードと同衾したこともなかったけど。
 私は――幻影に恋をしていた。
 カレンは思った。リックはどんな男だろう。また幻影に恋してやいないだろうか。――可能性はある。
(まぁ、人間だし、嫌なところや欠点はあるかもね)
「リチャードさんの息子さんは――リックと呼んでくださいと言ってました」
「そうだろうね。あの子はハンフリー・ボガードのファンだったから」
 でも、ハンフリー・ボガードよりリックの方が素敵だわ。
 しかし、カレンはそう心の中で呟いたことをおくびにも出さなかった。
「あいつのことは気にしなくていい。カレン。脚本をまた見せてくれないか」
「今、クロエと最後の詰めに入ってるとこなの」
「クロエか。あの人も脚本家志望だったと言うことはないかい?」
「才能がないんで諦めたみたい。でも、映画に携わる仕事はしたかったんだって。私の専属になりたいと言ってるの」
「それがいいんじゃないかね」
「ダメよ。会社が手放さないわ」
「そうか――それじゃ仕方がないね。――リックから脚本を見たいという要望はなかったかい?」
「あったわ」
「じゃあ行っておく。あいつに何を言われても素知らぬ顔でかわせ。脚本家としての才能はカレンの方があるのは確かなんだ。私はあれの親だから息子のことはよくわかるんだ」
「はい」
 何となく微笑ましくなってカレンは電話を切った。ここは公衆電話なのだ。
 リチャードと話して勢いづいたところでその息子にも電話をかけてみる。
「もしもし――」
「あ、カレンかい? リックです。――今、手を離せない用事が終わったところだ」
 リック! ちゃんと電話に出てくれた! ――カレンは叫び出しそうになったが我慢した。
「カレン、『かつてのスターに花束を』の原稿、見せてくれる約束は忘れてないよね。もしまだ嫌なら断ってもいいんだけど」
「いいえ。完成稿じゃなくて良かったら喜んでお見せしますわ」

 カレン・ボールドウィンは秘密主義だ。自分でもそう思っていた。けれど、リックには脚本を見せたくてたまらなかった。まだ拙いホンだけど――。
(リックはリチャードさんの息子だから、いいわよね――クロエが何と言うか心配だけど)
 リックは近くのレストランで待っていた。ピザやステーキの匂いがぷんぷんする。
「待ってたよ。カレン」
「美味しそうな匂いでお腹が空いたわ」
「はいはい」
 リックは苦笑しているようだった。ここにリチャードもいてくれたら――とカレンは思う。カレンは鞄の中をごそごそと漁り出した。
「どうしたんだい?」
「原稿を――はい、これ」
 カレンはリックに紙の束を渡す。
「読んでもいいのかい?」
「はい――クロエも協力してくれました」
「クロエがねぇ……僕はちょっとこれ読んでるから、カレンは好きなの頼んでいいよ。僕のおごりだ」
「ありがとう」
 リックはまだ若い。いくつなんだろう、とカレンは思った。二十代は過ぎていないと思う。
「リック――あなた、いくつ?」
「んー、二十八だけど?」
「まぁ、随分若いのねぇ」
「父は女出入りが激しかったからね。母は随分苦労したようだ。ロザリーが殴り込みに来た時は大変だったよ。『リチャード・シンプソンは私の夫です』とか言ってね。その場には僕もいたけどね」
「へぇ……」
 絵が見えるようだ。包丁を持って脅すロザリーと、妻を庇おうとするリチャード。リックもなかなか大変な青春を送ってきたのではなかろうか。
「大変だったわね……」
「まぁね。何もかも父さんが悪いんだけど」
 そう言いながらもリックは高速で紙の束をめくる。
「はい、読み終わったよ」
「は……早い……」
 流石のカレンも口をあんぐりさせている。
「いい話だけどね――ちょっと描写が甘過ぎやしないかい?」
「まぁ……」
 カレンはムッとした。クロエもこれは話題になると保証している。カレンの不機嫌そうな顔で、何を言いたいのかわかったのであろうリックが微笑んだ。
「素人のくせに――というんだろう? でも、素人の印象も馬鹿にしてはいけない」
「そういうのって、印象批評というのではないでしょうか?」
 カレンの口調が固くなる。
「映画を観る人は大半が素人だということを忘れてはいけないよ。芸術家殿」
「――馬鹿にしてるの?」
「まぁ、褒めてはいないね」
 これでは――リチャードの方が優しかった。けれど、リックの言葉にも一理あるんじゃないかとカレンは考える。カレンの頭の中はぐちゃぐちゃになり、足元からくずおれそうになった。
 ――他に意地悪な批評家志願の同級生達にいじめられたことがあるのに、その時は全然平気だった。それなのに、何故リックの台詞は気に障るのであろう。
「そうだな――僕なら主人公の最後の言葉をこんな風にはしない」
 そう言ってリックは赤ペンでさらさらと書いた。
「あと、ここもいらない、ここも――ああ。この子の独白は入れようね。それから――この主人公の台詞、ここは無駄だから全部変えようね――って、そういや主人公って誰だっけ。そこをはっきりさせないと」

「――いい加減にしてください!」
 カレンが叫んで立ち上がる。リックは重要と思われるところほぼ全部に修正を入れたのだ。――ランチタイムはとうに終わっていた。
「脚本を書く苦労もわからないくせに、勝手に朱を入れないでください!」
「君は怒りっぽいね。もうちょっと批評家の言うことにも耳を傾けた方がいい」
「けれど、彼らはあなたのように勝手に私の脚本を自分好みに直したりしません」
「どうも困ったな――僕は全くの素人という訳ではないんだよ」
「じゃあ、どこかで勉強して来たの?」
「ああ――」
 リックは溜息混じりに答えた。
「僕は今は医者だが、脚本の仕事をかじったことがあるんだよ。それはなかなか好評を博した――君と同じくらいには僕にも才能があると思うけどね――」
「リチャードさんから聞いてます。あなたが脚本家志望であったことは。そして、あなたが何を言っても素知らぬ顔でかわせ――と」

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2020.04.30

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