田園交響楽 1

「カレン。あなたに会わせたい人がいるの」
 クロエ・J・バーンズの電話での第一声はそれだった。
「誰かしら?」
 カレン・ボールドウィンが応える。
「リチャード・シンプソンの息子よ」
「え……」
 リチャードに息子がいることは知っていたが――。
「名前は何とリチャード・シンプソン・Jr!」
「……そのまんまじゃない」
「カレンにも紹介しようと思って。場所はレストラン『グランプリ』よ。道わかんなかったら誰かに聞いてね。この近所だけど。良かったら来てね。チャオ」
 ――電話は切れた。
 全く、何だって言うのかしら。
 カレンは電話の受話器を見つめたままだった。とにかく行ってみよう。せっかくだから余所行きの服の方がいい。
 カレンは着替えに持って来た水色のツーピースで、ニナリッチの香水をつけてクロエが指示した場所へ向かった。

「いらっしゃい、カレン」
 カレンの目にはクロエの姿など映っていなかった。
 そこにいたのは――。
「やぁ、初めまして。ボールドウィンさん。私はリチャード・ヘンリー・シンプソン・Jrです」
 立ち上がってそう声をかけてきた男性だった。
 整えられた白金色の髪。逞しい体格。アルマーニの上品なスーツ。爽やかなハーブの匂いがしそうなその男は――
 リチャード・シンプソンに瓜二つだった。
「――カレン、カレン」
 クロエの声でカレンは我に返った。
「あ、すみません。あまりにもリチャードさんに似てたもので……」
「と、リチャード・Jrを見た人は必ず言うのよねぇ」
 クロエがニヤニヤしている。
 リチャードの息子のことはリチャードから聞いている。
「初めまして。リチャード・Jrさん。私はカレン・クリスティーナ・ボールドウィンです」
 カレンのミドルネームは母ジェーンが流産してしまったカレンの姉につけたかった名前である。この名前で一生いることが、姉にとっての供養になるとカレンは思っている。
「カレンさんとお呼びすればいいので?」
「――カレン、と呼んでください」
 自分の顔は赤くなってないだろうか――カレンは狼狽えていた。
 そう、彼女は恋に落ちていたのだ。

「いい人そうでしょ。彼」
 ホテルの一室でクロエが言った。
「ええ」
 リチャード・Jrとは様々な話をした。
(僕のことはリックと呼んでください)
 リチャード・Jrはそう言った。リック――昔の映画、『カサブランカ』を思い出す。有名過ぎるくらい有名である。
(『明日? そんな先のことはわからない』――か)
 いつか『カサブランカ』のような名作をものしてみたい。実はなかなかの野心家であると自分では思っているカレンはぐっと拳を握った。
 リックは自分の仕事の話をするよりも脚本家としてのカレンの話を聞きたがった。クロエにもいろいろ質問した。熱心な人なんだな、とカレンは思った。――それから、ギルバート・マクベインのことも沢山話した。彼の病状のことも。
(何か、好きになれそう――というか、好きになりそう……)
 クロエと寝酒をきこしめた後、カレンは眠ってしまった。
 恋をして幸せなはずなのに、カレンが思うのはもう一人の男のこと――。
(ごめんなさい、リチャードさん)
 夢うつつにカレンはいろいろと今まで世話を焼いてくれたリチャードに謝った。何故謝ったのかは自分でも知らぬまま――。

「カレン。朝よ。起きて――」
 クロエに揺すられてカレンは目を覚ます。
「ん……」
 日差しが眩しい。カレンは目を擦った。
(顔、洗わなきゃ――)
 カレンは顔を洗って歯を磨いた。クロエが、
「食後に歯磨きすればいいのに」
 と言ったが、
「起きがけの口内には菌がうようよいるのよ」
 とのカレンの答えで彼女も急いで歯を磨く。ミントの味の歯磨き粉だ。口がすーすーして清涼感があって好きだ。
(あの人、清潔そうだったな――)
 カレンはリックのことを思い出す。父のリチャードより清潔かもしれない。リックは私生活も清潔なのに違いない。
(なんてね。私――リックのことよく知らないのに)
 けれど、リックの清潔感には好感を持てた。そういえばミントの香りが彼には合うかもしれない。
(彼はお酒飲むかしら――)
 彼には一人静かに飲む酒が似合いそうな気がする。彼の父親と同じく。
 私――また妄想してる……。
 想像力が豊かなことはいいことかもしれないけど、カレンはそれで時々失敗している。恋愛でも同じだ。仕事では上手く結びついているのだが、それでもやはり失敗した。
(まさかリチャードさんがロザリーと本当にデキてたとはね……)
 それを思い出したカレンは鏡の前で眉を顰める。脚本家にしておくには惜しいくらい、造作の整った顔をしている。いつだったか友人に言われた。男の友人だった。――告白されたが、カレンにはそんな気はなかったので振ってしまった。
「何ぼーっとしてるのよ、カレン」
 歯磨きを終えたクロエは言った。
「前々から言おうとしたんだけど、あなた、時々トリップするのねぇ――脚本家の性かしら」
「考え事、してたのよ」
「考え事ぉ?」
「うん」
「どんなこと」
「秘密」
「秘密ねぇ――あなた、リックに恋したんじゃない?」
「ヘンリーっていうミドルネームなのね。リチャードさんとおんなじ」
「うん。まぁ……ミドルネームのことについては私もいろいろ考えているんだけどさ――ヘンリーはありふれてないかしら。私はジャゴバーグなんて変なミドルネーム持ってるけど」
「――ジャゴバーグ」
「アンタねぇ……私を怒らせたいの?」
 クロエはフランス系アメリカ人で、ジャゴバーグと呼ばれるのを死ぬ程嫌がっている。
「ごめんなさい。冗談よ」
「もう――わかった。リックとあなたのことについてはこれ以上首突っ込まない。でも、これだけは言わせて」
「なぁに」
「頑張って」
 そう言い残してクロエはくるりと後ろを向く。いいプロポーションだ。鳩胸でっちりだが。どちらかというとスレンダーなカレンはクロエのハリウッド的美貌が羨ましい。
 クロエは何で私なんかと付き合っているんだろう。どうして私の力になってくれるんだろう。
 そうクロエに訊いたら、
「友達だからよ」
 と、笑って答えてくれた。クロエのような友達に会えて、自分は本当に幸せだとカレンは思う。
 これでリックが恋人になってくれたなら――。
 そこまで考えて、カレンはそんな考えを振り払うようにふるふると首を振った。
「食事、行きましょ。このホテルのレストラン、スシが美味しいのよ」
 クロエはいろんなことを知っている。彼女は版権代理人だ。カレンも世話になっている。
 カレンは今、『かつてのスターに花束を』という映画の脚本を書いている。クロエもいろいろ助言をくれる。本当はあなたの専属になりたいんだけど――と言っているが、カレンの実力はまだ未知数だというのに。
 恵まれてるな、私――。
 カレンはハイヒールを履いてクロエの後に続く。ホテルに泊まることは急に決まったので、昨日の服と同じ服を着ている。昨日のカレンを目にした人は、今日も同じ服を着ているのを見たら妄想を逞しくするかもしれない。

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2020.03.09

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