アジアンハート 7

「何……何言ってるの? エレインさん」
 最初に反応したのはリチャードでなくカレンだった。
「交通事故で……同席していたレオ・オブライエンは頭にかすり傷を受けただけだったけど……」
「そ、そんな……」
 カレンは裂帛の悲鳴を上げた。
「いやあああああああああああ!」
 ――そして、カレンは気絶してスツールから滑り落ちた。

 まさか、私の息子が死ぬとは……。
 お前は私に負けないくらいのドライビングテクニックを持っていたんじゃなかったのかい?
 私より先に死ぬとは……最後まで親不孝な奴だ、お前は……。

 リチャードは息子の棺桶の傍に花を供えた。リチャード・Jrは頭を打って死んだらしい。レオの話では、気が付くと運転席で血を流して命を落としていたとのことだった。
「リチャードおじさん……」
 長い銀髪を揺らしながらレオがやって来た。
「やぁ、レオ。災難だったな」
「おじさんこそ……」
「そうだな。あんな息子でも私の息子には違いないからな」
「あの、それで、耳に入れておきたいことがあるんです」
「――何だ」
「俺、実はリックが死んでほっとしてるんです」
 リックとは、リチャード・Jrの愛称だ。
「何故だ」
 思わずリチャードの声が険しくなる。
「俺、リックに告白されました。君が好きだと――。俺は……嫌だったんですが……。思えばあの時きっぱりと断っていれば良かったんです。悪いのは俺です」
「――うむ」
 カレンが言った息子の本命の相手はレオか――だが、それを咎め立てすることは出来なかった。リチャードだって、昔アルバートに恋をした。レオの父親、アルバート・オブライエンに。
「俺に対するリックの態度が日増しに病的になって来て――だから、カレンに告白されたと聞いた時は安心しました。これで、この人は俺から離れてくれると――でも」
 レオが一拍置いてから言った。
「カレンを振ったと……リックは俺と一緒に日本に行きたかったようです。でも、俺は日本になんて行きたくなかった。ここには大好きな人が沢山いるし……でも、リックが……」
 この青年は父親とは違って優柔不断な性格らしい。
「困ってるなら、私に知らせてくれれば良かったのに」
「でも……リックがおじさんと疎遠だったの俺、知ってたから……」
 そして、啜り泣くレオの声が聴こえる。リチャードは少し白けながら言った。
「……一人にしてくれ」
「はい」
 レオは葬儀の参列者の間に紛れて霧の中へと消えて行く。
 確かにレオは美しい青年だ。アルバートより美しいかもしれない。けれど――まさか息子が彼に夢中になるとは……。
「リチャードさん……」
「遥……」
「俺も、参加させてもらいました。礼紀には内緒で」
「――ああ」
「息子さん、お気の毒でしたね」
「まぁ……言って聞く男ではなかったな」
「どう言う意味ですか?」
「いや……」
 リチャードは手袋を嵌めた手で顔を覆った。――神様、これが私に対する罰でしょうか。
「遥。ありがとう。葬式に参列してくれて」
「いえ……俺は……わかってましたから」
「そうか……いつからだい?」
「…………」
 喋りたくないならそれでもいいさ。
「俺は、この瞬間はリチャードさんと一緒にいたかったんです……」
 遥が話題を変えた。
「何でだ」
「訳なんてありません。ただ、一緒にいたかったんです」
 霧が濃くなって来た。この地方には珍しい。伸ばした手の先も見えない。まるで霧の街と言われるロンドンだ。
「おーい、おーい」
 リョウの呼ぶ声が聴こえる。
「はぁ……遥にリチャードさん。こんなところにいたんですか。探したんですよ」
「じゃ、俺はこれで」
「待て。遥。お前はこれからどこへ行く」
「俺は風。自由が恋人。どこに行くなんて自分でもわからんさ。縁が会ったらまた会えますよ……」
 遥はふらっとその場を後にした。大澤遥。最後まで掴めぬ男だった。己が考えていた以上にスケールの大きい男だったのかもしれない。リチャードはそう考える。――リョウが言った。
「リチャードさん……レオのところへ戻りましょう」
「ああ……」
 今頃、龍一郎とアイリーンは大忙しだろうな、とリチャードは思った。リョウが続ける。
「俺、人に死なれるの、慣れてないんですよ」
「そりゃ、そんなことに慣れる人なんて普通はいないだろう」
「でも、遥は慣れているような感じでした」
 アジアンハート、か。遥のことを考えるとつい思い出す。
 風来坊に見える遥にも根っこはしっかりある。それがアジアンハートなんだろうとリチャードは考える。
 トロールビーズアジアンハート。お守りのように持って歩いている。私は何だっていつの間にかあの男に感化されてしまったのだろう。
(アジアは――遠い)
 日本には昔、行ったことがある。そこにはいい思い出が詰まっている。
 アジアンハート。いつかそれを理解出来る日が来るのであろうか。それよりも自分がくたばってしまう方が早い気がする。
 このトロールビーズは龍一郎にあげてしまおうか。
 いやいや。それは出来ない。キリスト教ではお守りを持つことは禁止されていると龍一郎が言っていた。
 結局、自分が持って行った方がいいのだ。――リョウが訊いた。
「ねぇ、リチャードさん。遥からもらった何とかアジアンハート、持ってる?」
「持ってるが?」
「大事にしてやってくれよ。遥のことだから、何か変な力も備わっているかもしれないけど」
「どんな目に遭っても、私はもう老い先短いからな」
「そんなこと言わないでよ――レオのところ行こう?」
「離せ!」
 リチャードはリョウの手を振り払った。
 仕方ないね――リョウはそう言って霧の中へ消えて行こうとする。リチャードは声を上げた。
「待て!」
 微かに見えるリョウが立ち止まったようだ。
 リチャードがこんな風に本気で声を張るのは珍しい。それで、ある映画では効果的な演出と絶賛されたことがあるのだが。
 リチャードは霧の中の従甥、リョウに近寄ろうと歩を進めた。
「やはり――行こう」
「リチャードさん……レオのこと、あんまり怒らないでやってくれよ」
「怒る? どうして私が……」
「いつだったかさ、『アルバートのいない世界で生きてみたかった』って言ってたじゃん。アルバートさんがいなかったらレオも生まれなかったんだし……でも、レオが悪い訳じゃないから……。カレンもわかっていると思うんだけど……」
「ふむ……」
 確かに、アルバートのいない世界はそれなりに楽しい世界ではあろう。しかし、アルバートが生きて来たこの世界と比べれば、何て味気ないだろう!
 息子は、レオのせいで、死んだ。
 けれど、そう考えるのは間違えているのかもしれない。不幸な偶然が重なっただけかもしれないのだ。事故の現場を見ていないから何とも言えない。
 アジアンハート……大澤遥。どこかで私達のことを見守っていてくれよ。――リチャードには今のところアジアンハート以外に頼る物はないと思っていた。アジアンハートは遥の言った通り、アジアの心なのだから。

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2020.05.23

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