アジアンハート 1

 カレン・ボールドウィンが木の扉をノックした。その家の家人には聞こえなかったようなので、改めてインターフォンを押した。当節、ノッカーはただの装飾でしかない。
「どうぞ。開いてますよ」
 カレンが家に入ると、そこにいたのはリチャード・シンプソン・Jr。その金髪はかつての彼の父親を思わせる。カレンだって長く黒い巻き毛がリチャード・Jrの従姉妹叔母のアイリーンに少し似ているようだ。
「紅茶持ってきますよ。掛けて」
「いえ、いいの」
 カレンが断った。
「じゃあ何か音楽でも……」
「――サイレントで。リック、話があるの――私、『かつてのスターに花束を』はある意味完全には自分の書いた話じゃないと思ってるの」
「ああ……」
 まだそのことにこだわっているのかい? リチャード・Jrのその目はそう言っていた。
「あれはあなたの作品よ。評判も上々だわ。わかる? 文系の人間が理系の人間に負けたのよ。でも、今日はそんなことを話に来たんじゃないわ」
 カレンの黒い目がリチャード・Jrを射抜いた。
「私、あなたが好きなの」

 1990年、ニューヨーク――。
「リチャードさん、休ませてもらうよ」
 アーサー・リョウ・柊がどさっとリチャード(親の方)の家のリビングに入り込むとそのままソファにずるずると凭れ掛かる。
「おいおい……」
 リチャードも少し呆れている。こちらのリチャードは金色に輝いていた髪はすっかり白くなり、その顔には年輪ともいうべき皺がしっかり刻み込まれていた。若い頃は大層な美貌で、前述のようにリチャード・Jrにそっくりで、写真を見せても、
「どっちがどっちだかわからない」
 ――これはアイリーンの言葉である。
 それにしても、リョウはやけに憔悴しきっている。
「リョウ――アリスと何かあったのか?」
「アリスも問題だけど、俺が今こうなってるのはあの男のせいだ」
「男と付き合ってるのかい?!」
「どうしてそういう――俺がカレンを好きなのは知ってるだろう」
「そりゃまぁ……」
「明日ここに大澤遥という男がやってくる。俺の親父が日本人なんで懐かれたんだ。初めは俺の絵目当てで来たヤツなんだけど」
「へぇー……モテるんだな」
「野郎にモテたって仕方ないよ。水一杯ちょうだい」
「キッチンぐらいわかるだろう。自分で入れ給え」
「――そんな元気もないよ」
「……リョウ。ハルカ・オオサワって言うのはそんなに難しい子なのかね?」
「あいつ自身は難しかないよ。ただ、バックボーンって言うのがな――あいつは普通じゃないから。本当かどうかわからないけど、タイムスリップとかしたことあると言うんだ。おまけにおっそろしく心霊体質でさぁ……」
「ほうほう」
 リチャードは適当に頷いていた。リョウぐらいの年齢だと、そういうオカルト的な思考に惹かれることはよくあることなのだ。
「信じてないだろ。リチャードさん。俺だって信じられないよ。――てか、信じたくないよ……」
「そうか……だがねぇ、リョウ。こういう幻想とかは君のお父さんのテリトリーじゃないか? その子は幻を見てるんだよ。龍一郎に相談した方がいい」
 リョウの父親は牧師なのである。
「親父があてになるかよ。いつも壇上で説教するだけなのに」
「でも、霊感は私よりあるんじゃないかな」
「――とにかく親父は駄目さ。いらない心配をかけたくない。お袋にも」
「随分親孝行だねぇ。私にもどう言っていいかわからんが」
 覇気のないリョウにリチャードが水を持って来た。
「ありがと」
 リョウは一気に飲み干す。
「ふぁ~、やっと人心地ついた」
「それで? 君の友達が来るって?」
「ああ――遥ね。あいつ、迷わなければいいけどな。方向音痴だから。まぁ、羽田がいるから大丈夫だろうけど」
「羽田って?」
 少し困惑気味のリチャードにリョウはあっさり答えた。
「ああ……遥の友人だよ。とてもしっかりしてるんだ」
「そんなに頼りがいのある友人がいるなら、何もお前まであたふたしなくても良いんじゃないか?」
「そうなんだけどさ……羽田もああ見えて訳ありなヤツだからさ」
「どんな訳だね?」
「笑わない?」
「――笑わないさ。これでも人生六十年過ぎてるんでね。ちょっとやそっとのことでは笑ったり怒ったりしないさ」
「じゃあ言うよ。――羽田礼紀は遥に命を助けられてる。――こことは別の世界で」
 リチャードは何だか頭の中がぐるぐるして来た。笑い飛ばすことすらできない。
「ほら、呆れてる」
「いや、なんというかその……お前達何かの新興宗教にでも入ってるんじゃないかね?」
「薬を飲んでラリってるとでも? 俺達三人で病院行ったけど、別に異常なところはなかったよ」
「本気か?」
「大澤遥――あいつと付き合ってると何が常識かわからなくなってくるよ。リチャードさんは勿論そんなことはないだろうけどさ」
「リョウ……いいか、よく聞け。若いうちはエキセントリックな存在とか、カリスマ性のある人に憧れることがある。けれども結局は平凡が一番いいとわかるようになるのさ」
 この私のように――リチャードは胸に手をやった。
「リチャードさんだって全然普通じゃないじゃないか。殺人事件に巻き込まれたりして」
 む、それもそうか――リチャード・シンプソンの心は簡単に揺らぐ。
「あ、そか。シンプソン殺人事件のこともヤツは知ってる。あんまり興味がないみたいだったけど。それより黄金コンビで活躍してた頃のリチャードさんの話を聞きたいって」
「それならまぁ……話せると思うが」
「遥はハリウッド映画が好きなんだ。――昔の」
「アクション映画とかじゃないのか?」
「それも好きだけど、リチャードさんが出てくる映画も好きだってさ」
「なかなか渋い趣味をしているな。しかも感性がいい」
「感性が良過ぎて吹っ飛ばなきゃいいけどね」
「私は吹っ飛ばされない」
「知ってるよ。俺が心配してるのは遥のことだよ。――水ご馳走様」
 リョウが空になったコップを携えてキッチンへ行こうとした時のことだった。
「待て」
 リチャードがストップをかける。
「何?」
 リョウは怪訝そうだ。
「その髪はいつまで伸ばしてるんだ?」
「別段勝手だろ? 長髪は芸術家のシンボルだよ。なかなかイカしてるだろ? 長髪の日系人なんてさ」
「君のポリシーはいい。実は龍一郎からリョウに髪の毛切るように私の方からも言ってくれって頼まれたんだ」
「親父の言うことなんか聞かないもん。俺」
「じゃあ、アイリーンに切れ、と言われたら?」
「お袋はそんなこと言わないよ」
 リョウがふふん、と得意げに鼻で嗤った。
「親の言うことは聞くもんだぞ。リョウ。私みたいになってからでは遅いんだ。――私はもっと親孝行したかったよ。あの時はまだほんの子供だったから――」
「――前向きに検討するよ」
 両親を殺され、両親を殺した強盗を刺した嫌疑をかけられたことのあるリチャード・シンプソンの一言は重かった。リョウにもその重さが伝わったらしい。
「わかってくれたか」
 リチャードが青灰色の瞳の光が優しくなる。
「リチャードさんは俺なんかよりよっぽどヘビーな人生送って来たんだもんな。それに比べりゃ俺なんか恵まれたもんだよ。大澤遥がなんぼのもんじゃい!」
「その意気その意気」
「リチャードさん」
「ん?」
「――ありがと」
 リョウが小声で言う。彼の流すキッチンの水音を聞きながら、(案外素直だな、父親に似て)――とリチャードは思った。雑用を済ませた後、リョウはいつも泊まる客室へ荷物を運んで行った。譲れないところではてこでも動かない頑固さも持ち合わせているが。

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2020.02.19

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