Satoru ten years old
9
 部屋の扉が軽く開いた。
「ナー」
 私はその時、懐かしさで心がいっぱいになった。
 ダイアナ――ダイアナじゃないか!
 それは、確かに、昔飼っていた猫、ダイアナだった。
 真雪が『大二郎』という名をつけそうになったところを、私が変更させたのだ。
 鈴村真雪。
 真雪はこんなセンスのいい名前を持っているのに、どうして本人のセンスは悪いんだろう。
 でも、ダイアナはオスなのだ。
 ダイアナはギリシャ神話の月の女神なのに。
 でも、当時はそんなことわからなかった。
「ダイアナ!」
 私は飛び起きて、ダイアナに頬ずりした。
 私も、真雪も、淳一兄さんも猫きちがいなのだ。
 ダイアナは確か、真雪が拾ってきたんだっけ。
 何か足りない――と思っていたが、そうか、ダイアナのことだったのか。
 でも、私は大人になってからは猫を飼っていない。
 ダイアナをみとってから、一匹も。
 近所の野良猫に餌をやっていることはあるが。
 ダイアナのこともあるが――もしかしたら真雪のこともあるのかもしれない。
 真雪のことを思い出したくないから――今まで意識したことはなかったが。
 ダイアナは、私が大学を卒業した年に死んだ。
 ダイアナ――会いたかった!
「可愛い猫だな」
 そうだろう、そうだろう。
「遥には触らせてやんねぇぞ」
 真雪が言った。
「んな殺生な」
「嘘だよ――聡、遥にダイアナ渡してやんな」
「――わかったよ」
 どうも、真雪には敵わない。
 真雪には人を従わせずにはおられない何かがある。
 だから、淳一兄さんも時々やりこめられている。
 今日だってそうだ。
 真雪がいなかったら、今頃遥はこの部屋にいない。
「猫って柔らかいな。骨なんてないんじゃないか?」
 猫にだって骨は一応、ある。
 でも、骨はないんじゃないか――そう考えさせられるぐにゃぐにゃした柔らかさを猫は持っている。
 そこがいいとこなんだ。
 ダイアナは気持ちよさそうに遥の膝でごろごろと喉を鳴らす。
 遥に懐いたんじゃないだろうか。
 私は、遥に嫉妬めいたものを感じた。
 しかし、何といっても、この猫は真雪が拾ったものだ。
 真雪が一番可愛がっているし、ダイアナも真雪は別格だと感じているみたいだ。
 自慢ではないが――いや、はっきり言って自慢なのだが、ダイアナは美しい猫だ。
 スタイルもいい。
 去勢手術は受けていないから、近所のメス共に子供を産ませているのであろう。
 発情期なんかは大変だったが。
 淳一兄さんが去勢手術を受けさせようとしたところ、真雪が猛反発したのだ。
「だったら、兄貴も去勢手術するといい!」
 意味わかって言ってたのかなぁ、真雪……。
 きっと知らないに違いない。
 ただ生殖器を切るという知識はあったようだ。
 真雪は、ダイアナの体のどこも切らせるつもりはなかったに違いない。
 激しい言い合いの末、淳一兄さんは折れた。
 真雪には甘いんだ、淳一兄さん……。
 ダイアナの世話は真雪がやっていた。
 そこのところだけは偉いと思う。
 子猫が産まれたら引き取って、里子に出す。
 捨てるなんて真似はしない。
 そんな非道なこと、できるわけがない。
 この街には、猫好きが多かった。
 それに、真雪は顔が広いから、引き取り手に困ることはなかった。
 私は何にもしなかった。
 すっと、何にもやらずに生きてきた気がする。
 淳一兄さんの苦労も、真雪達と一緒に泥んこになって遊ぶ気持ちよさもわからない。
 私は何もわからない。
 だから……人生は自分の上を通り過ぎるだけだった。
 たくさんの女友達も通過点だった。
 真雪と淳一兄さんは別だ。
 彼らと一緒にいた時だけは、ほんの少しでも、生きていたと言えるかもしれない。
 気のおけない友達といえば、高橋君しかいない。
 それは、何て空しいことなのだろう。
 今までそんなことは考えたことはなかったが。
 それでも、それなりにやってきたのだ。
 私には、自分で命を絶つほどの気力もなかったからだ。
 真雪は、私とは別の意味で、自殺とは無縁の少年だ。
 その真雪が……死んでしまうなんて……。
 嘘だ、認めたくない!
 私は……認めていないからこそ、真雪が死んだ時も、淳一兄さんがいなくなった時も、悲しくなかったのだ。
 いつか、真雪がひょっこり現われて来るような気がして。
 見果てぬ夢――だが、その夢は今、叶ったのだ。
 遥のおかげで。
 もっというと――これをいうと不謹慎だが――風間さんが入院してくれたおかげで。
「遥……」
「ん? 何?」
 猫を撫でながら遥が訊いた。
「何でもない」
(ありがとう)
 ここは居心地が良い。
 ずっといてもいいくらいだ。
 でも、いつかは帰らねばならない。
 淳一兄さん、真雪、ダイアナとも離れて――。
 私は何かをなさなければならない。
 けれど、それは何なのだろう。
 思考回路はぐるぐる回っている。
 情けないな、鈴村聡――これでも、たとえ売れなくても作家をやっているこの私が。
 まぁ、実際に額に汗して働いたことのない高等遊民ではあるけれど。
 ドアにノックの音がして、淳一兄さんが入って来た。

Satoru ten years old 10
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