Satoru ten years old 「ナー」 私はその時、懐かしさで心がいっぱいになった。 ダイアナ――ダイアナじゃないか! それは、確かに、昔飼っていた猫、ダイアナだった。 真雪が『大二郎』という名をつけそうになったところを、私が変更させたのだ。 鈴村真雪。 真雪はこんなセンスのいい名前を持っているのに、どうして本人のセンスは悪いんだろう。 でも、ダイアナはオスなのだ。 ダイアナはギリシャ神話の月の女神なのに。 でも、当時はそんなことわからなかった。 「ダイアナ!」 私は飛び起きて、ダイアナに頬ずりした。 私も、真雪も、淳一兄さんも猫きちがいなのだ。 ダイアナは確か、真雪が拾ってきたんだっけ。 何か足りない――と思っていたが、そうか、ダイアナのことだったのか。 でも、私は大人になってからは猫を飼っていない。 ダイアナをみとってから、一匹も。 近所の野良猫に餌をやっていることはあるが。 ダイアナのこともあるが――もしかしたら真雪のこともあるのかもしれない。 真雪のことを思い出したくないから――今まで意識したことはなかったが。 ダイアナは、私が大学を卒業した年に死んだ。 ダイアナ――会いたかった! 「可愛い猫だな」 そうだろう、そうだろう。 「遥には触らせてやんねぇぞ」 真雪が言った。 「んな殺生な」 「嘘だよ――聡、遥にダイアナ渡してやんな」 「――わかったよ」 どうも、真雪には敵わない。 真雪には人を従わせずにはおられない何かがある。 だから、淳一兄さんも時々やりこめられている。 今日だってそうだ。 真雪がいなかったら、今頃遥はこの部屋にいない。 「猫って柔らかいな。骨なんてないんじゃないか?」 猫にだって骨は一応、ある。 でも、骨はないんじゃないか――そう考えさせられるぐにゃぐにゃした柔らかさを猫は持っている。 そこがいいとこなんだ。 ダイアナは気持ちよさそうに遥の膝でごろごろと喉を鳴らす。 遥に懐いたんじゃないだろうか。 私は、遥に嫉妬めいたものを感じた。 しかし、何といっても、この猫は真雪が拾ったものだ。 真雪が一番可愛がっているし、ダイアナも真雪は別格だと感じているみたいだ。 自慢ではないが――いや、はっきり言って自慢なのだが、ダイアナは美しい猫だ。 スタイルもいい。 去勢手術は受けていないから、近所のメス共に子供を産ませているのであろう。 発情期なんかは大変だったが。 淳一兄さんが去勢手術を受けさせようとしたところ、真雪が猛反発したのだ。 「だったら、兄貴も去勢手術するといい!」 意味わかって言ってたのかなぁ、真雪……。 きっと知らないに違いない。 ただ生殖器を切るという知識はあったようだ。 真雪は、ダイアナの体のどこも切らせるつもりはなかったに違いない。 激しい言い合いの末、淳一兄さんは折れた。 真雪には甘いんだ、淳一兄さん……。 ダイアナの世話は真雪がやっていた。 そこのところだけは偉いと思う。 子猫が産まれたら引き取って、里子に出す。 捨てるなんて真似はしない。 そんな非道なこと、できるわけがない。 この街には、猫好きが多かった。 それに、真雪は顔が広いから、引き取り手に困ることはなかった。 私は何にもしなかった。 すっと、何にもやらずに生きてきた気がする。 淳一兄さんの苦労も、真雪達と一緒に泥んこになって遊ぶ気持ちよさもわからない。 私は何もわからない。 だから……人生は自分の上を通り過ぎるだけだった。 たくさんの女友達も通過点だった。 真雪と淳一兄さんは別だ。 彼らと一緒にいた時だけは、ほんの少しでも、生きていたと言えるかもしれない。 気のおけない友達といえば、高橋君しかいない。 それは、何て空しいことなのだろう。 今までそんなことは考えたことはなかったが。 それでも、それなりにやってきたのだ。 私には、自分で命を絶つほどの気力もなかったからだ。 真雪は、私とは別の意味で、自殺とは無縁の少年だ。 その真雪が……死んでしまうなんて……。 嘘だ、認めたくない! 私は……認めていないからこそ、真雪が死んだ時も、淳一兄さんがいなくなった時も、悲しくなかったのだ。 いつか、真雪がひょっこり現われて来るような気がして。 見果てぬ夢――だが、その夢は今、叶ったのだ。 遥のおかげで。 もっというと――これをいうと不謹慎だが――風間さんが入院してくれたおかげで。 「遥……」 「ん? 何?」 猫を撫でながら遥が訊いた。 「何でもない」 (ありがとう) ここは居心地が良い。 ずっといてもいいくらいだ。 でも、いつかは帰らねばならない。 淳一兄さん、真雪、ダイアナとも離れて――。 私は何かをなさなければならない。 けれど、それは何なのだろう。 思考回路はぐるぐる回っている。 情けないな、鈴村聡――これでも、たとえ売れなくても作家をやっているこの私が。 まぁ、実際に額に汗して働いたことのない高等遊民ではあるけれど。 ドアにノックの音がして、淳一兄さんが入って来た。 Satoru ten years old 10 BACK/HOME |