Satoru ten years old
8
「にしても、聡。おまえ、本当に交通事故にあったのか……? 大変だったな。痛くなかったか?」
 真雪はしみじみと言った。
 本当に優しい子である。
「痛かったけどね。……一瞬のことだったから」
「そうか……」
「僕は大丈夫だよ」
 またおまえにも会えたしね――その台詞は心の中で呟く。
「やっぱり聡、いつもと違う」
 真雪は、私のことをよく見ている。
 淳一兄さんは、どちらかと言うと、真雪の方を可愛がっていたような気がする。
 その真雪は、私を何くれとなく気遣ってくれていた。
 これで、真雪も淳一兄さんを慕っていたら、私の居場所はこの家になかったかもしれない。
 けれど、真雪は淳一兄さんを煙たがっていた。
 訳は知らない。
 今更、どうでもいいことだ。
 私は、真雪も淳一兄さんも好きだ。
 ただ、それだけだ。
「ねぇ、君達……」
 遥が言った。
 おお、すっかり忘れていた。
 私をこの世界に連れてきた張本人だと言うのに。
「ああ、そうそう。その懐中時計、ちょっと貸してくれないか?」
 私の言葉に、遥が神妙な面持ちで頷いた。
 時計の蓋を開ける。
 時計の針は前に見た通り、逆方向に勢い良く動いている。
「何だこれ」
「一度壊れてからずーっとこうなんだよ」
 遥が真雪に説明する。
「ただの壊れた時計じゃねぇか。どれ」
 真雪が遥の手からそれを取り上げ、じろじろ見たり、ひっくり返したり、蓋を開けたり閉じたりしていじくり回した。
「何も起こらないじゃねぇか」
「そりゃ、今はね。でも、この時計に縁があったのかもしれないよ。おまえも」
「そうかねぇ……」
 真雪は半信半疑といった態で遥に時計を返した。
「そのことはまぁいい。それよりも聡、元いた世界に帰りたいか?」
 遥が真剣な顔をした。
 帰りたいか――。
 私には愛する者がいない。
 独身貴族を気取っているわけではないが、ついこの年まで結婚せずに来てしまった。
 女友達ならたくさんいる。
 だが、結婚する気になれなかっただけだ。
 付き合う相手には不自由しなかった。
 私だって、鈴村家の血をひいている。
 淳一兄さんも真雪も、そして私も、女性にはもてる方だった。
 だけど――帰りたいか、といえば……。
(カエリタクナイ)
 その思いがあるのに驚いた。
 だって、私は私のいる世界でそれなりに楽しくやってきたのだ。
 それなのに、帰りたくないなんて――。
 真雪と淳一兄さんのいるこの世界から離れたくないなんて……。
 私は、夢でもいい、この世界にいることを欲していた。
「僕は……別に帰らなくても……」
「駄目だ」
 遥が首をゆっくり横に振った。
「そう言うと思ってたよ。ここは居心地がいいしな。けれど、おまえは使命を果たしたら、元の世界に帰らなければならないんだ」
「使命……?」
「そう。おまえがここに来た使命だよ」
 使命か――私は、少し考え込む。
「なぁなぁ、それよりもさ、俺の大人になった時の姿ってどうなってるんだ? 少しは今よりかっこよく成長してるか?」
 真雪の言葉に、私は物想いから覚めた。
 ああ――私は嘘をつかなければならない。
「かっこいいよ」
「そうか――そんならそれでいいや」
 真雪はそれ以上追及しなかった。
 ごめんな、真雪。
 おまえは大人になれずに死ぬんだよ。
 でも、言うわけにはいかない――遥にも。
「まあ……さ」
 遥がぽりぽりと頭を掻く。
「聡、おまえがどうしてここに来たのかしんないけど、できる限りのサポートはするつもりだぜ」
「あっ、俺も俺も」
 真雪も勢いよく手を上げた。
 私は吹き出した。
「聡――元気になったんじゃねぇの?」
「うん。まぁ、風邪みたいだったけど、そんなにだるくないし」
「いや。精神的にさ。何となく元気なかったみたいだし」
 真雪はにっと笑った。
 何だか美少女に微笑まれたみたいで、私はこそばゆくなった。
 私の同業者には、こういう少年が好きなのもいる。
 そういう輩に真雪は見せたくないなぁ――私は思った。
 弟の欲目と笑ってくれ――私は、もうどうでもいい。
 使命とやらもどうでもいい。
 真雪と淳一兄さんを助けることができればだ。
 せっかくこの世界に来たんだ。
 この二人は助けたい。
 遥が――わかるよ、と言いたげに視線を送った。
 ほんの少し悲哀の混じった、共感に満ちた目。
 この人も、タイムスリップしたんだっけ。
 それは、どんな体験だったのだろう――彼は、大切な人を助けることができたのだろうか。
「遥。大切な誰か、助けることができたか? タイムスリップによって」
 私の突然の質問に遥はきょとんとしたが、やがて、満面の笑みを浮かべて親指を立てた。
 ああ――良かった。
「俺は上手くいったよ。だから――おまえのことも助けたい」
「じゃあ、それまでこの家にいてくれるね?」
 私は勢い込んでそう訊いた。
「そうだな――あんたらがいい、と言ってくれれば」
「いいよな、真雪」
「……まぁ、聡がそういうんなら、仕方ねぇか」
 真雪は渋々と、という風に承諾した。
 しかし、私にはわかる――真雪がすっかりこの話を信じ込んだこと、これからの冒険の予感にわくわくしてること。

Satoru ten years old 9
BACK/HOME