Satoru ten years old 男は屈託なく言って、靴を脱いで家に上がった。 濡れた足跡が点々とついた。 彼はスリッパを下駄箱から取り出して履こうとしたが――。 「うわ、おじさん、すげぇ濡れてるな」 との真雪の指摘でそれを止めた。 スリッパを汚すかもしれないと思ったんだろうか。 「そりゃあこの雨の中を通って来たからね」 「そのままだと風邪ひくよ。着替えた方がいいんじゃない?」 「ついでにシャワーも浴びた方がいいよ」 と、私。 「じゃあ、俺、兄貴に服借りていいかどうか聞いて来るよ」 「ついでにタオルも持ってきてよ」 私が注文を付け加えた。 真雪がいなくなると、私は男と二人きりになってしまった。 男の顔から笑みが消えた――といっても、元が元なので、急に厳しい面になるわけでもなかったが。 しばらく沈黙が訪れたが、先に口を開いたのは男の方だった。 「なぁ、あんたにちょっと聞きたいことがあるんだが――」 それはこっちの台詞だ。 「あんた、俺に時計のこと聞いたって言ってたな」 私は片目で男を見た。 「言ったよ」 「あのな――」 男が言いかけた時だった。 「兄貴、服貸してくれるって!」 真雪が飛び込んできた。 「それから、はい、タオル」 「サンキュー。ほら、お兄さん、靴下脱いで足拭いて」 「おう。ありがと」 「じゃ、シャワー浴びてくるといいよ。浴室と洗面所は、真っ直ぐ行って右のところにあるから。その間に淳一兄さんの服を選んでくるよ」 私はわざと子供子供した口調で喋った。 真雪の前で時計の話はしない方がいい。 (あとで) 私は目で伝えたつもりだったが、本当にあの男に伝わったかはわからない。 「服ぐらい俺が選ぶよ」 そんな真雪の言葉に、私はにいっと片頬を上げた。 「真雪。おまえのセンスに信頼がおけると思ってるのか?」 「うっ……それは、その……」 真雪も、センスのなさは自覚しているらしい。 自分の洋服を選ぶ感覚のなさについては。 私は淳一兄さんの部屋から紺のセーターとベージュのスラックスと下着と水色の靴下を出して、バスタオルと共に脱衣所の籠の中に置いておく――客用スリッパを揃えておくのも忘れない。 男の体格だと、淳一兄さんの服は少々きついかもしれないが。 男は鼻歌なんぞ歌って、天下泰平だ。 「よお。わざわざありがとな」 ……ドアぐらい閉めとけよ。 「後で話聞くから、待っててな」 「はい。どうせ私にも聞きたいことがたくさんあるんです」 私は浴室の扉を閉めた。 それにしても、何者なんだ? あいつは。 独特の、人を惹きつける力を持っていることは認める。 そして、不思議な魅力がある。 早く男と話して、私がこうなったわけを知りたかったが、知ったからと言ってどうなるというのだろう。 そんなことを考えながら、私はダイニングルームへ行く。 「淳一兄さん」 「おや、聡。料理ができるまで寝てなさい」 「はい」 「俺が毛布持ってきてやるから、そこのソファにでも横になってろよ」 「うん」 「真雪、そんな行儀の悪いこと――」 「いいだろ、別に。俺だって散々寝たぜ。料理すぐできんだろ?」 「まぁ、それはそうだけど――仕方ないな」 兄さんは真雪に弱い。 台所の扉が閉まった。 何から何まで感謝だな――真雪。 私は猫足のソファに、真雪の持って来た毛布にくるまって、うとうとしていた。 その時――男がやってきた。 「おーい。これ、似合うかー?」 「なんだ、おじさん。もう飯できてるよ」 「……おまえさんの年じゃ、俺はおじさんかもしれないけどさ、せめてお兄さんと呼んでくれよな」 「けっ、おじさんで充分だよ」 真雪と男はウマが合っているらしい。 「できたばかりだから、熱いよ。――聡は起きられるかい?」 「――はい! 淳一兄さん!」 私は勢いよく毛布を跳ね飛ばした。 兄さんはくすくす笑った。 「じゃ、手を洗っておいで。――真雪もだぞ」 「わかった。それよりおじさん。名前なんていうの?」 真雪が男に尋ねる。私はごくっと息を呑んだ。 チャンスはあったものの、忘れていたりなんだりして訊けなかった。 この男の、名前。 「大澤遥と言います。宜しく」 男は快活に自己紹介をした。 大澤――遥。 遥って、女でも通じる名前だなぁ。 まぁ、この目の前の人物を女だと思う者はまずいないであろうけれど。 何となく似合って見えるのが不思議だ。 「俺、真雪! 鈴村真雪!」 「鈴村淳一です。宜しく」 兄さんは湯気の立った料理をテーブルの上に乗せると、ぺこっと頭を下げる。 「んで、あんたも鈴村?」 私の方を向いた男のぞろっぺえな口調に少々ムッとした。 「そうです。鈴村聡です。以後お見知りおきを」 「以後お見知りおきを、と来たか」 遥は笑いながら、ぺんと手の平で自分の額を叩いた。 何がおかしいんだ? この男。 「朝ごはんを食べたら、この子に話があるんだけど――」 「でも、聡は風邪ですし――」 「いいんだよ、淳一兄さん! この人は大切な――」 我ながら、まさか次に、自然にこの言葉がつるりと出てしまうとは思わなかった――。 「友達なんだ!」 Satoru ten years old 6 BACK/HOME |