Satoru ten years old
5
「じゃ、お邪魔しまーす」
 男は屈託なく言って、靴を脱いで家に上がった。
 濡れた足跡が点々とついた。
 彼はスリッパを下駄箱から取り出して履こうとしたが――。
「うわ、おじさん、すげぇ濡れてるな」
 との真雪の指摘でそれを止めた。
 スリッパを汚すかもしれないと思ったんだろうか。
「そりゃあこの雨の中を通って来たからね」
「そのままだと風邪ひくよ。着替えた方がいいんじゃない?」
「ついでにシャワーも浴びた方がいいよ」
 と、私。
「じゃあ、俺、兄貴に服借りていいかどうか聞いて来るよ」
「ついでにタオルも持ってきてよ」
 私が注文を付け加えた。
 真雪がいなくなると、私は男と二人きりになってしまった。
 男の顔から笑みが消えた――といっても、元が元なので、急に厳しい面になるわけでもなかったが。
 しばらく沈黙が訪れたが、先に口を開いたのは男の方だった。
「なぁ、あんたにちょっと聞きたいことがあるんだが――」
 それはこっちの台詞だ。
「あんた、俺に時計のこと聞いたって言ってたな」
 私は片目で男を見た。
「言ったよ」
「あのな――」
 男が言いかけた時だった。
「兄貴、服貸してくれるって!」
 真雪が飛び込んできた。
「それから、はい、タオル」
「サンキュー。ほら、お兄さん、靴下脱いで足拭いて」
「おう。ありがと」
「じゃ、シャワー浴びてくるといいよ。浴室と洗面所は、真っ直ぐ行って右のところにあるから。その間に淳一兄さんの服を選んでくるよ」
 私はわざと子供子供した口調で喋った。
 真雪の前で時計の話はしない方がいい。
(あとで)
 私は目で伝えたつもりだったが、本当にあの男に伝わったかはわからない。
「服ぐらい俺が選ぶよ」
 そんな真雪の言葉に、私はにいっと片頬を上げた。
「真雪。おまえのセンスに信頼がおけると思ってるのか?」
「うっ……それは、その……」
 真雪も、センスのなさは自覚しているらしい。
 自分の洋服を選ぶ感覚のなさについては。
 私は淳一兄さんの部屋から紺のセーターとベージュのスラックスと下着と水色の靴下を出して、バスタオルと共に脱衣所の籠の中に置いておく――客用スリッパを揃えておくのも忘れない。
 男の体格だと、淳一兄さんの服は少々きついかもしれないが。
 男は鼻歌なんぞ歌って、天下泰平だ。
「よお。わざわざありがとな」
 ……ドアぐらい閉めとけよ。
「後で話聞くから、待っててな」
「はい。どうせ私にも聞きたいことがたくさんあるんです」
 私は浴室の扉を閉めた。
 それにしても、何者なんだ? あいつは。
 独特の、人を惹きつける力を持っていることは認める。
 そして、不思議な魅力がある。
 早く男と話して、私がこうなったわけを知りたかったが、知ったからと言ってどうなるというのだろう。
 そんなことを考えながら、私はダイニングルームへ行く。
「淳一兄さん」
「おや、聡。料理ができるまで寝てなさい」
「はい」
「俺が毛布持ってきてやるから、そこのソファにでも横になってろよ」
「うん」
「真雪、そんな行儀の悪いこと――」
「いいだろ、別に。俺だって散々寝たぜ。料理すぐできんだろ?」
「まぁ、それはそうだけど――仕方ないな」
 兄さんは真雪に弱い。
 台所の扉が閉まった。
 何から何まで感謝だな――真雪。
 私は猫足のソファに、真雪の持って来た毛布にくるまって、うとうとしていた。
 その時――男がやってきた。
「おーい。これ、似合うかー?」
「なんだ、おじさん。もう飯できてるよ」
「……おまえさんの年じゃ、俺はおじさんかもしれないけどさ、せめてお兄さんと呼んでくれよな」
「けっ、おじさんで充分だよ」
 真雪と男はウマが合っているらしい。
「できたばかりだから、熱いよ。――聡は起きられるかい?」
「――はい! 淳一兄さん!」
 私は勢いよく毛布を跳ね飛ばした。
 兄さんはくすくす笑った。
「じゃ、手を洗っておいで。――真雪もだぞ」
「わかった。それよりおじさん。名前なんていうの?」
 真雪が男に尋ねる。私はごくっと息を呑んだ。
 チャンスはあったものの、忘れていたりなんだりして訊けなかった。
 この男の、名前。
「大澤遥と言います。宜しく」
 男は快活に自己紹介をした。
 大澤――遥。
 遥って、女でも通じる名前だなぁ。
 まぁ、この目の前の人物を女だと思う者はまずいないであろうけれど。
 何となく似合って見えるのが不思議だ。
「俺、真雪! 鈴村真雪!」
「鈴村淳一です。宜しく」
 兄さんは湯気の立った料理をテーブルの上に乗せると、ぺこっと頭を下げる。
「んで、あんたも鈴村?」
 私の方を向いた男のぞろっぺえな口調に少々ムッとした。
「そうです。鈴村聡です。以後お見知りおきを」
「以後お見知りおきを、と来たか」
 遥は笑いながら、ぺんと手の平で自分の額を叩いた。
 何がおかしいんだ? この男。
「朝ごはんを食べたら、この子に話があるんだけど――」
「でも、聡は風邪ですし――」
「いいんだよ、淳一兄さん! この人は大切な――」
 我ながら、まさか次に、自然にこの言葉がつるりと出てしまうとは思わなかった――。
「友達なんだ!」

Satoru ten years old 6
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