Satoru ten years old
4
 ノックが聞こえた。
「起きたかい? 聡。おや、着替えたんだね」
 淳一兄さんが入ってきた。
「お早うございます。兄さん。もうだいぶ楽になったから」
「そう、きっと昨日飲んだ熱冷ましが効いたんだね。いいから今日一日は寝てなさい」
「そんな……いいですよ」
「駄目だ」
 淳一兄さんは怖い顔になる。
「今調子がいいのだって、熱冷ましのおかげかもしれないじゃないか。さぁ聡、いい子だから、今日は大人しくしていなさい」
 淳一兄さんは、風邪をひいた時はうるさかった。
 熱がほとんどひいても、一日は寝かせられた。
 私は外を見ながら、早く遊びに行きたい、行きたいと念じていたのである。
 その反動でか、私は一人で暮らすようになってから、風邪をひいても不摂生ばかりしていたが、それでも風邪がこじれるということはなかった。
 まぁ、淳一兄さんが口うるさくなったのには、父母がいなかったというのもあったと思う。
 淳一兄さんは十代の若さで、年の離れた弟達の両親代わりを務めなければならなかったのだ。
 よくやっている、と言ってもいいだろう。
 私はこれ以上逆らわなかった。
 また雷が鳴った。
 兄さんが訊いた。
「怖くない?」
 私は大丈夫、と答えた。
 私だって、今でこそ見かけは十歳前後の子供だけど、本当は三十六の大人である。
 家の中に雷はまず落ちないことは知っている。
 怖いはずがなかった。
「じゃあ、朝ごはんにしよう。部屋まで持ってくる?」
「そこまでしなくて、いいよ」
 こそばゆくなって、私が言った。
「ご飯を食べたら、パジャマに着替えて、ゆっくり寝るんだよ。いいね」
 どうも、この兄には反抗できない。
 私は頷いた。
「真雪も待ってるから」
 兄さんはドアのそばに立ち、手を差し出すように待っていた。
 手を繋いで行こうといいのだろう。
(――過保護なんだから)
 思わず笑いが零れそうになった。
 だが、私はそれに異存のないしるしを見せた。
 私はすっかり十歳の頃に帰っていた。
 階段にさしかかった時、呼び鈴が通路中に響き渡った。
 真雪が玄関に走って行くのが見える。
「お客さんみたいだね」
「うん」
 胸騒ぎがした。嫌な感じとは違うが。
 ただ、何かが始まる、全てはこれから始まるのだという、そんな予感がした。
 真雪が扉を開けて、黒い人影が入ってきた。
 二言三言、真雪とやりあっているらしい。
「どうしました?」
 真雪は救いを求めるような目で、兄さんを見上げる。
「あ、お父さんですか? 良かったぁ」
 相手は人好きのする顔で笑った。
 私はあっと声を上げた。
「どうかしたのかい? 聡」
 兄さんが不審そうに尋ねる。
 私はそれには答えずに、男の顔を凝視した。
 彼は私をこんな運命に誘った人物にそっくりだった。
 忘れもしない。黒髪に青いメッシュ、男らしいきっぱりとした顔立ち。
 まさか……まさか……。
「僕はこの子達の兄なんです」
 淳一兄さんが言う。
「そうですか。道理で若いと思った」
 男は相変わらず微笑っている。
 私は湧きあがって来る疑問を押しとどめることができなかった。
「わ……私を覚えているか?」
「え?」
 男は不意をつかれたような顔で私に目を移した。
「ほら、『Long time』で……雑貨屋のアンティークショップに来た客だよ。君に時計のことを聞いた……覚えてないか? 私のことを」
 男は要領を得ない顔で首を傾げている。
 でも、彼は私のことを覚えているはずだ。
 私はあの頃とは顔も姿も違う。
 けれど、彼は私のことを覚えているはずだ。
 何故なら、彼こそが私をここに連れて来た張本人なのだから!
「あの、この子……」
 後に続く言葉は、ちょっとおかしいんじゃないか、か? 何でもいい。
 私だって相手が茶色の大きな目をした、青メッシュの男でなければ、こんなことは言わなかった。
 相手がおまえでさえなかったら!
「すみませんね。この子はちょっと風邪ひいてるもので。聡。二階へ行って休んでなさい」
「兄さん……」
 兄さんの目には有無を言わさぬものがあった。
 ここから追い出されたら、私はチャンスを失ってしまう。
 根拠もわからぬながら、咄嗟にそう思った私は、必死でこの場を切り抜ける算段を考え始めた。
 祈りが天に通じたのか――。
「いいから聡もいさせてやれよ」
 ぼそっと言う声が聴こえた。真雪だった。
「聡、朝飯食った?」
 真雪の質問に、まだだけど、と答えた。
「そんならちょうどいい。俺達はもう食ったけど、みんなで何かつまみながら話そうよ。なぁいいだろ。おじさん」
「え、だけど、君さっきは――」
 男は戸惑っているようだ。
 ははん、さては真雪の奴、この男を追い出そうとしてたな。
「知らない人だったから、警戒してたんだよ。そんなこともわからねぇのかよ。でも、おじさん聡の友達なんだろ?」
「別に友達というわけではないんだけど――」
 男は何か言いたそうだったが、諦めたように肩を竦めた。
「まぁいいや。願ったり叶ったりだ。実は俺、腹ペコだったんだ。そこにこの雨だろ? しばらく雨宿りさせてもらおうと思って来たんだから」
「そういうわけだ。兄貴、一人増えるけどいいか?」
「真雪……」
 兄さんは呆れたように真雪を見つめたが、
「わかった。――食卓で待っていてください」
 台詞の後半を男に向けて言うと、兄さんは台所へと向かった――多分。
(サンキュー。真雪)
 私は心の中でそう礼をした。伝わったのか、真雪は私に向かってウィンクした。

Satoru ten years old 5
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