Satoru ten years old 「起きたかい? 聡。おや、着替えたんだね」 淳一兄さんが入ってきた。 「お早うございます。兄さん。もうだいぶ楽になったから」 「そう、きっと昨日飲んだ熱冷ましが効いたんだね。いいから今日一日は寝てなさい」 「そんな……いいですよ」 「駄目だ」 淳一兄さんは怖い顔になる。 「今調子がいいのだって、熱冷ましのおかげかもしれないじゃないか。さぁ聡、いい子だから、今日は大人しくしていなさい」 淳一兄さんは、風邪をひいた時はうるさかった。 熱がほとんどひいても、一日は寝かせられた。 私は外を見ながら、早く遊びに行きたい、行きたいと念じていたのである。 その反動でか、私は一人で暮らすようになってから、風邪をひいても不摂生ばかりしていたが、それでも風邪がこじれるということはなかった。 まぁ、淳一兄さんが口うるさくなったのには、父母がいなかったというのもあったと思う。 淳一兄さんは十代の若さで、年の離れた弟達の両親代わりを務めなければならなかったのだ。 よくやっている、と言ってもいいだろう。 私はこれ以上逆らわなかった。 また雷が鳴った。 兄さんが訊いた。 「怖くない?」 私は大丈夫、と答えた。 私だって、今でこそ見かけは十歳前後の子供だけど、本当は三十六の大人である。 家の中に雷はまず落ちないことは知っている。 怖いはずがなかった。 「じゃあ、朝ごはんにしよう。部屋まで持ってくる?」 「そこまでしなくて、いいよ」 こそばゆくなって、私が言った。 「ご飯を食べたら、パジャマに着替えて、ゆっくり寝るんだよ。いいね」 どうも、この兄には反抗できない。 私は頷いた。 「真雪も待ってるから」 兄さんはドアのそばに立ち、手を差し出すように待っていた。 手を繋いで行こうといいのだろう。 (――過保護なんだから) 思わず笑いが零れそうになった。 だが、私はそれに異存のないしるしを見せた。 私はすっかり十歳の頃に帰っていた。 階段にさしかかった時、呼び鈴が通路中に響き渡った。 真雪が玄関に走って行くのが見える。 「お客さんみたいだね」 「うん」 胸騒ぎがした。嫌な感じとは違うが。 ただ、何かが始まる、全てはこれから始まるのだという、そんな予感がした。 真雪が扉を開けて、黒い人影が入ってきた。 二言三言、真雪とやりあっているらしい。 「どうしました?」 真雪は救いを求めるような目で、兄さんを見上げる。 「あ、お父さんですか? 良かったぁ」 相手は人好きのする顔で笑った。 私はあっと声を上げた。 「どうかしたのかい? 聡」 兄さんが不審そうに尋ねる。 私はそれには答えずに、男の顔を凝視した。 彼は私をこんな運命に誘った人物にそっくりだった。 忘れもしない。黒髪に青いメッシュ、男らしいきっぱりとした顔立ち。 まさか……まさか……。 「僕はこの子達の兄なんです」 淳一兄さんが言う。 「そうですか。道理で若いと思った」 男は相変わらず微笑っている。 私は湧きあがって来る疑問を押しとどめることができなかった。 「わ……私を覚えているか?」 「え?」 男は不意をつかれたような顔で私に目を移した。 「ほら、『Long time』で……雑貨屋のアンティークショップに来た客だよ。君に時計のことを聞いた……覚えてないか? 私のことを」 男は要領を得ない顔で首を傾げている。 でも、彼は私のことを覚えているはずだ。 私はあの頃とは顔も姿も違う。 けれど、彼は私のことを覚えているはずだ。 何故なら、彼こそが私をここに連れて来た張本人なのだから! 「あの、この子……」 後に続く言葉は、ちょっとおかしいんじゃないか、か? 何でもいい。 私だって相手が茶色の大きな目をした、青メッシュの男でなければ、こんなことは言わなかった。 相手がおまえでさえなかったら! 「すみませんね。この子はちょっと風邪ひいてるもので。聡。二階へ行って休んでなさい」 「兄さん……」 兄さんの目には有無を言わさぬものがあった。 ここから追い出されたら、私はチャンスを失ってしまう。 根拠もわからぬながら、咄嗟にそう思った私は、必死でこの場を切り抜ける算段を考え始めた。 祈りが天に通じたのか――。 「いいから聡もいさせてやれよ」 ぼそっと言う声が聴こえた。真雪だった。 「聡、朝飯食った?」 真雪の質問に、まだだけど、と答えた。 「そんならちょうどいい。俺達はもう食ったけど、みんなで何かつまみながら話そうよ。なぁいいだろ。おじさん」 「え、だけど、君さっきは――」 男は戸惑っているようだ。 ははん、さては真雪の奴、この男を追い出そうとしてたな。 「知らない人だったから、警戒してたんだよ。そんなこともわからねぇのかよ。でも、おじさん聡の友達なんだろ?」 「別に友達というわけではないんだけど――」 男は何か言いたそうだったが、諦めたように肩を竦めた。 「まぁいいや。願ったり叶ったりだ。実は俺、腹ペコだったんだ。そこにこの雨だろ? しばらく雨宿りさせてもらおうと思って来たんだから」 「そういうわけだ。兄貴、一人増えるけどいいか?」 「真雪……」 兄さんは呆れたように真雪を見つめたが、 「わかった。――食卓で待っていてください」 台詞の後半を男に向けて言うと、兄さんは台所へと向かった――多分。 (サンキュー。真雪) 私は心の中でそう礼をした。伝わったのか、真雪は私に向かってウィンクした。 Satoru ten years old 5 BACK/HOME |