Satoru ten years old 鏡の中には、レモン色のパジャマを着た少年がいた。 茶がかった真っ直ぐの髪、柿の種型の細い鼻。色素の薄い茶色の瞳、その目はぱっちりしてて睫毛も長い。 淡い桜色の形の良い唇は驚きで半開きになっている。 これは私か? さっき目端に入った袖口は確かにレモン色だった。 熱があるようで頬も紅潮している。 真雪と淳一兄さんの口ぶりからすると、私は風邪をひいて寝ていたらしい。 やはりこれは私なのか? ――そうだ! 確かに、これは私だ! 私が自分の小さい頃の顔を忘れていただけなのだ。 とすると、ここは私の子供だった頃の世界。 でも何故? その時、天啓が閃いて、全てのことが合点がいった。 逆方向に針が進む時計のこと。 黒髪に青いメッシュを入れた男の話。 事故に遭ったこと。 全てが一瞬にして思い出され頭の中で繋がった。 時の間が読んでいる。 男の話は嘘ではなかったのか? 冗談じゃない! 私はただ単にそのことを小説のネタにしたかっただけである。 私自身がそんな体験をしたかったわけではない。 悔しくてわぁわぁ泣いたら、淳一兄さんがとんできて私を寝かしつけようとした。 私は淳一兄さんの手を振りほどく。 はめられた。あの男にはめられたのだ。 そんな思いがぐるぐると私の脳裏を駆け回っていた。 最初から反感は感じていたのだ。胡散臭い――と。 思えば確かにあの男は胡散臭かった。 人を逸らさぬ笑顔をして、油断のならない奴。 店主とだって、本当に仲が良かったか知れたもんじゃない。 そうだ。風見さんはよく気紛れにふらりと店を出て行く。 その隙に、あの男が入り込んで、店員のふりをしたんだ。 風見さんが病気だと、嘘までついて。 「あ……あはははは」 私は笑い出した。 泣いていたかと思ったら、今度は笑い出したので、淳一兄さんはさぞびっくりしただろう。 心配そうに見ている目に、奇異なものでも見るような表情が入り混じっている。 体に嫌な悪寒が走る。 熱が上がり始めたらしい。 肌は熱いのに、体の芯は寒いような気がする。 私がぶるっと体を震わすと、兄さんが、 「ほら、急に起きたから、体が冷えただろう」 と言って布団をまくり上げ、ベッドをぽんぽんとはたき、その中に入るよう私を促した。 私は今度は大人しく従った。 兄さんは落ちた濡れタオルを額に乗せてくれた。 「疲れたんだね。聡。もう大丈夫だよ。ゆっくりお休み」 兄さんは二、三度私の頭を撫でると、真雪と一緒に部屋を出て行こうとした。 真雪が出て行き際に一言、言った。 「聡。早く良くなれよな」 扉が閉まって、私は一人になった。 兄さんはゆっくりお休みと言ったけど、私はゆっくりお休みになんかなれる気にならなかった。 子供の頃の世界に、戻ってきてしまった。 私は呆然とベッドの中で考えていた。 あの男は、時の間に行った人間には、それなりの理由があると言った。 なら、私にもあるのだろうか。 ここに来た理由というのは。 あるとしたら、それは一体何なのだろう。 私が時の間に消えたとしても、困る者は誰もいないであろう。 親の財産を食い潰し、売れない作品を書いて暮らしているあまり才能のない作家など、いてもいなくても同じである。 兄弟だってもう既にいない。 岩手に淳一兄さんの妻と子がいるが、疎遠である。 ガールフレンドはたくさんいるが、一人として、「このひとは」と思った人に出会ったことがない。 私がいなくなったらいなくなったで、みんな何とかやっていくだろう。 私はあまり人に執着しない質なのかもしれない。 子供の頃からそうだった。 真雪が死んだ時も、淳一兄さんが行方不明だと聞かされた時も、 「ああ、そうか」 で終わった気がする。 悲しむことは悲しんだが、いない状態に慣れることも早かった。 特に、淳一兄さんは、行方がわからなくなる数年前から、ろくに会ってもいなかったのだから。 親戚や友達はそんな私のことを、 「冷たい」 「情が薄い」 などと言っていたが、考えてみたら彼らも、赤の他人と同じような存在であった気がする。 つらつら考えてみるにつれ、私は落ち着きを取り戻していた。 そうだ。この状況になった時はパニックになって泣き喚いたりしたが、落ち着いて考えてみると、何だってああも取り乱してしまったのか。 思うにあれは、見事にしてやられたという悔しさと、常識が粉砕されたショックに違いない。 今もまだ混乱しているが、二、三日――まぁ、十日もすれば慣れるだろう。 この世界だって、いなくなった真雪や淳一兄さんに会えたりできて、そう悪いところでもあるまい。 何より、〆切や編集者との付き合いや、自分の才能のなさのことについて、考えなくて済む。 高橋くんに会えないのは、少し残念だけど。 彼もしっかりした有能な編集者だ。私より少しは才能のある作家を担当して、それなりにやっていくに違いない。 ――そのうち、私は眠っていたらしい。 気がつくと朝だった。 時計は十時を指していた。 朝、というには少し遅いかもしれない。 でも、私はいつも、だいたいこの時間に起きるのだ。 部屋の中は、夜よりは明るかったが、いつもの明るさはなかった。 藍色の空が雲を覆っている。雨が激しく屋根を叩いているようだった。 一晩寝るうち、熱はだいぶ下がったようで、体はかなり楽だった。 窓際に立って、雷のひとつでも落ちてきそうな天気だと思って眺めていたら、本当に、空が光ってゴロゴロ鳴り出した。あれは空の唸りに違いない。 せっかく熱も下がったことだし、着替えようと思った。 風邪とはいえ、パジャマのままで過ごしていたら気持ちがだらけてしまう。 たいてい十時頃に起きる私が言うのもなんだが。 いや、子供の頃はちゃんと六時に起床していた――はずだ。 確か服はクローゼットにあったはずだ。私はクローゼットの扉を開けた。 この間までのお気に入りだった深緑の上下が着られないのが残念である。 代わりに私は、白いブラウスに、黒のカーディガン、アイロンの折り目のきっちりついた黒の細かい粒状の柄のスラックスを選んだ。 Satoru ten years old 4 BACK/HOME |