Satoru ten years old
2
「時の間?」
 私が訊き返した。
「そう――」
 男が眼鏡を外した。やはり伊達だったのか――。
「俺の友達や家族から聞いた話だよ。俺自身はそんなこと経験したことないがね。四年がとこ、この時計を持ち歩いているけど」
 口調もくだけてきていた。
「たとえば?」
「たとえば、これは俺の友人なんだけど、自分の死んだところを見たと言っていたし――俺の親は、同じ一日を五回繰り返したって。あと、自分の意識が過去や未来に飛んだなんてことはしょっちゅうさ」
「まるでSFかファンタジーだな」
「気味が悪くなったんで、あまり人に時計を触らせなかいようにしてたんだけど――考えてみると、時の間に行っちまった奴ってのは、それだけの理由があるんだよな」
「そうかい」
「それが必要な奴ってのは、まず例外なくこの時計を欲しがるんだよな」
「さっきの私のようにか」
「そう」
「私もこの時計に触ったよな」
「ああ。だからそのうちアンタにも、時の間からお呼びがかかるかもしれないぜ」
「楽しみだな」
「ま、ちょっと面白い話だったろ? だからどんなに頼まれたって、これは売れない。じいちゃんは俺が大学三年の時死んじまった……」
「それは……ご愁傷様だな」
「これは形見なんだ」
 男が時計の蓋を愛おしそうに撫でた。
「さ、他にも何か見て行くかい?」
「いや……今日はこれでいい」
 私の声はかすれていた。
「また来てくれよ。アンタいい男だから、まけてやるぜ」
 まるで八百屋に買い物に来た奥さんに言うようなお世辞を言って、男は片目をつぶった。
 そんなこと、勝手にして、後で風見さんに怒られないのだろうか。
 だが、今の私はそれどころではなかった。
 急いで外に出て駆け出した。
 速やかに家に帰りたかった。そして原稿に向かいたかった。
 書きながらアイディアをまとめる。
 男の話を聞いているうちに湧いてきたもやもやとしたものを、早く紙に書き写したかった。
 ああ、逃げて行く。
 早くしないと逃げて行く。
 今度のはちゃんと形になるだろうか。
 手ですくった砂を指の間から取り零すように書きたいことを取り零してしまい、書くのを頓挫した傑作が、戸棚にいくつも眠っている。
 編集の高橋くんには、それで随分迷惑をかけた。
 今度は大丈夫だろうか?
 私はぐい、と不安を振りやる。
 いや、もしかすると今度は傑作になるかもしれない。
 今まで縁のなかった賞なんか貰えたりして、いつも泣いてばかりの高橋くんなんか今度は嬉し泣きしたりして――。
 題名は何がいいだろう?
『魔の時計』? いやいや。『時の間へ』? ――平凡過ぎる。
 まぁいい。まずは帰ってからだ。
 一刻も早く家に着けばいい。――早く早く早く。
 すぐ近くで急ブレーキのかかる音がして、私は高くはね上げられた。
 道路に強かに体を打つ。――痛い。
 頭が熱い。
 額に手を伸ばすと、ぬるりとしたものが触れた。
 手を戻して目の前にかざしてみた。
 ――指の間が真っ赤だった。
 すぐ近くに大型トラックが聳え立つ。
 私は――これに、轢かれたのか?
「大丈夫ですか?」
「事故だよ! 事故!」
「救急車呼べ! 救急車!」
「だ……か……」
 私は切れ切れに発音する。
 心配そうに覗き込んでいる人々の顔がくもる。
 涙でも出ているのだろうか。
 喧騒が意味を持たない音になり、辺りが少し静かになってきた時、
「やべぇ……俺の責任だ……」
 トラックの運転手らしい男の震える声を耳にした。
 それを最後に、私の意識は闇に落ちた――。

 ……頭ががんがんする。
 二日酔いの時に似ていた。
 ただ、体も何か熱いような気がする。――風邪だろうか。
 寝ているのにとても気分が悪い。
 目を覚まそうと思えば目覚められるのに、私はわざと眠り続けているふりをする。
 暗闇が動いている気がする。
 頭が痛い。頬も熱く感じられる。
「――聡、聡」
「だめだよ、真雪。聡は今、眠っているからね」
「聡の熱はいつ下がる?」
「――真雪、さぁ、部屋を出よう」
 真雪?! 真雪だと?!
 私は驚いて起き上る。
「真雪?!」
 ――そう叫んで。
 何かがぽとっと布団の上に落ちた。それは四角に折り畳んだ濡れタオルだった。
「聡」
 嬉しそうに私の寝ているベッドに駆け寄ろうとした少年は確かに真雪だった。
 それを年長の青年が止める。
「いけないよ、真雪。聡は熱を出して寝ているんだから」
 白いベストの年長の男に諭され、真雪は、
「ぶー」
 とふくれっ面をする。
 真ん中から分けられた長めの前髪が、眉のあたりに垂れかかる、優しげな面と涼しげな目元を持つ青年。
 ――淳一兄さん! 白いベストの青年は淳一兄さんなのだ!
 綺麗な横顔で外国の詩集なんか読んで、幼い頃私の憧れだった、あの淳一兄さんなのだ。
 でも、真雪は十一の時に死んだし、淳一兄さんだって三十の時に外国で行方不明になった。
 なんでその二人がこんなところにいるのだろう。
 そうか、と私は思った。
 トラックにはねられた時、私は死んだんだ。
 亡くなった私は死者達の幻を見ている。
 それにしても、あの世の風景というのは、なんとどこかで見たことのある景色なのだろう。
 白い壁にローズピンクの絨毯、上に皿や燭台などの置いてあるミニチュアの暖炉、二人はゆうに寝られるような大きなベッド――ここは子供の頃の私の部屋にそっくりだ。
 もし私の部屋だったら、後ろに大きな鏡があるはずだ。
 私は振り向く。あった! ――私はそこで凍りついてしまった。

Satoru ten years old 3
BACK/HOME