見果てぬ夢

 鏡にはあたしの顔が映っている。
 ……醜い。造作は悪くないはずなのに。
 これもみな、あの男のせいよ。
 娼婦となってから数年。こんなに男性を憎悪したのは初めてだった。
 ハーレム……。
 あたしの唇と、男を奪った奴。
 殺してやりたい。
 そうよ、殺して……。
 あたしはうっうっと嗚咽を洩らした。

 一番怖いのは貞淑な女だと、誰が言っただろうか。
 先輩格のレイラだった気がする。
「リサちゃんも結構貞淑だよね」
 あたしに対するミリィの台詞は意外だった。
「どこがぁ?」
 あたしは訊いた。
 娼婦なのに、貞淑なんて。もう何十人も男の相手をしているのに。
 あたしは笑った。みんなも笑った。でも、ミリィは続けた。
「だって、リサちゃん、ギデオンさん以外は目に入ってないみたいじゃない」
 ミリィは時々鋭い。
「こんな仕事してなかったら、ギデオンさんの立派な奥さんね」
「奥さんだなんて……」
 あたしは恥ずかしくなった。もじもじする。
「ふむ。確かにその通りよね」
 レイラが納得したように頷いた。ついでに他の仲間達も。
「や……やあね」
 その時、あたしは想像したのだった。小さな家。丹精込めて育てた草花のある庭。あたしはギデオンの赤ちゃんを抱いて……。
 見果てぬ夢だとはわかっているけどさ。どうせあたしはしがない娼婦。夢を見ているのがお似合いよ。
 でも、結婚式は挙げたいわ……白いウェディングドレス着て、隣にはギデオンが。
 そして、誓いのキス……。
 キス……。
 あたしは回想から覚めた。
 そうよ、あの男、ハーレムはあたしの唇を奪ったのよ!
 まぁ、この商売長いから、あのキスが初めてというわけではないのよ、もちろん。
 でも、あいつにはされたくなかったわ!
 あの男……ギデオンを夢中にさせている奴。
 ギデオンがハーレムを見る目。恋だとは認めたくない。けれども……そうかもしれない。
 あたしは、ふっと不安になる。
 ギデオンがあたしの上で腰を動かしている時でさえ。感じながら……あたしは不安になる。
 この生活はいつまで続くのだろう。
 ギデオンは、あたしに飽きないだろうか。
 ガンマ団員のGとしての生活――あたしの知らないギデオンの顔がある。
 それが、嫌。
 あたしはギデオンが好きなのに……ハーレムはあたしをからかっているんだわ。そういう奴よ。
 見るからに好色そうだったしね!
 初めて会った時から好きじゃなかったわ!
 ギデオンは、あんな男のどこが好きだったのかしら。
 どうして、あんな奴の部下になったのかしら。
 ただの上司と部下との関係とは思えない。部下は普通、上司にあんな顔しないわよ。
 ああ、仕事の時間だ。早く行かなくては。
 あたしは素早くメイクを整えた。あたしは、いつものあたしになった。胸に殺意を抱いて。
 今度ハーレムが来たら、アイスピックで心臓を一突きしてやる。
 あたしはそんな物騒なことを考えながら、酒場に顔を出した。
 ここは、娼館と酒場が一緒になっている。酒でほろ酔い加減になったところで、女を抱くというとこだ。
 あたしは……ずっと前に父親と喧嘩して、ここに転がり込んだ。
 レベッカママは、あたしを拾って置いてくれた。仕事をする条件で。
 初めてはギデオンじゃなかった。でも、それでもいいと思っていた。レベッカママが好きだったから、期待に応えようと思ったのだ。
 でも……初恋はギデオンだったから。
 今日はギデオンもハーレムもいない。あたしはその事実にほっとした。
 客に酒を運ぶ。他愛ない話で笑う。あたしは話し上手で有名なのだ。
 セックスしなくても、あたしと話をする為だけに足を運ぶ客は結構多い。
 レベッカは、
「あんたをここに置いておいて良かったわ。売り上げが倍以上あがったもの」
 と言ってくれた。それが何よりも嬉しい。
 それに……あたしは床上手だと評判だ。ミリィもそうだが。
 けれど……本当はこんな仕事から足を洗って、ギデオンと平和な家庭を持ちたい。
 断じて、ハーレムみたいな男ではなく!
 あの男は、不吉だわ! 結婚したら、間違いなく妻は不幸になる! 浮気もするだろう。
 あんな男の為に、泣き暮らすなんて耐えられない。
 あっちはあたしのことを憎からず思っているらしいけど、お生憎様! あたしはギデオンと結婚するの! 若さのまだあるうちにね!
 ハーレムなんて、ミリィにのしつけてくれてやるわ!
 そうよ! ハーレムにはあたしの唇奪う資格なんてないんだわ!
 ギデオンは……ギデオンは……あたしとしか寝てないわよね。まぁ、他のところで性欲発散させていても、文句言えた義理ではないけど。あたしは娼婦だもの。
 でも、できるなら純潔は守りたかった。
 ギデオンは、この店に来る時は、あたしとしか寝ない。
 初めてこの店に彼が訪れた時は、そりゃあびっくりしたわよ。幼馴染の、しかも初恋の人が、こんなところに来るなんて。
 ギデオンは上手だった。経験は豊かではなかったかもしれないが、生まれつき器用なんだろう。あたしとは体の相性がぴったりだった。
 けれど……ギデオンはハーレムに夢中で……。
 彼はハーレムのことを見ていた……あたしと話しながらでも、ふと、間が空いた時などに。
 もう、気のせいだとは思えない。ギデオンはハーレムが好きなのだ。
 そのハーレムが、あたしにキスをした……。
 許せない! あの男!
 陥れてやろうかしら。手練手管を使って。
 ……駄目ね。ミリィがいるもの。
 ミリィはどうしようもないところもある子だけど、一応友達だから。
 それに、ハーレムとギデオンは結ばれないわ。男同士だもの。
 男同士でも、真実の愛があれば結ばれるって、そういうのが好きな子が言ってたけど、世の中そう簡単じゃない。そんなに甘くないものよ。
 それを言うなら、娼婦と殺し屋の恋だって、夢物語だけど。
 それでも、あたしはその夢に縋って生きて行く。いつか……ギデオンがあたしに振り向くまで。
 いえ。振り向かせてみせるわ! 何としてでも!
 そしたら、あたしはギデオンだけを見て生きて行く。ギデオンの世話をして、ギデオンだけと共に寝て。ギデオンの子供を育てて。そうできたら、どんなにいいだろう。
 酒を飲みながら、あたしは思う。お客に笑顔を振りまきながら。
 あれから、ハーレムは来ない。それは特に残念とも思わないが、ギデオンも来ない。あたしはこんなに待ってるのに。
 やだ。これじゃあたし達が馬鹿にして唾棄している『貞淑な女』と同じじゃない。これでもあたしは話のわかる女として通っているのに。
 今日はあたしの夜の仕事はなかった。お客は全員帰って行ったのだ。
 やれやれだ。時々休まなければやっていけない。蜘蛛の巣はあたしとは無縁だ。
 酒場にも、あたし達店の者以外誰もいなくなった。こういう日もある。場末の娼館なのだから。それにしてはいい娘が揃っていると評判で、あたし達はそれを誇りにしていたのだが。
 レベッカママは、あたし達に高い酒を振る舞ってくれた。気前のいいところが大好きだ。
 当分、あたしはここにいると思う。なんだかんだ言ってもここが好きだから。ギデオンに対してほどではないけれど。
 明日――いや、今夜こそ、ギデオンが来ることを夢見て――ハーレムが来るのは嫌だけど――あたしはベッドに潜り込む。空が白んでいった。

後書き
リサちゃんシリーズ、『望まれない口づけ』の続編です。

2011.4.24


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