出立の前夜

「では、どうしても行かなければならないのですね」
『ええ、ジャン』
 暗い洞窟の中。逞しい、日焼けした体に布の足通しをまとっただけのいでたちの男は、眉宇に微かに決意を表して、赤い宝玉を見つめ続けていた。
 洞窟内にある、台座のように形作られた岩に安置されているのは、『赤の秘石』と呼ばれる、この島――パプワ島の宝である。だが、この島を守る、守り神でもあるのは、島でも一握りの者しか知らない事実である。
 赤の秘石は、思念波で空気を震わせ、まるで実際に話しているかの様に、自分の意志を伝えているのである。
 対する、男の名前はジャン。この赤の秘石を守って、数千年の時を過ごしていた。彼は、どこまでもこの島と、そして、守り神であるこの赤い石に忠誠を誓っていた。
『青の一族の力を抑えるために、ガンマ団へ……』
「わかりました」
『用意は調いました。後はあなたが行くだけ。――頼みましたよ。ジャン』
「――はい」
『何としてでも、彼らを止めてください。何としてでも。でないと、大変なことになる。きっと、私達も――』
 今や、赤の秘石とそれを守る者達と敵対している青の一族は、ガンマ団という暗殺者集団を作り、それが近年、急激に勢力を増し始めていた。
 その力が強大になるのを防ぐのが、赤の番人、ジャンに対する今回の指令である。
 最初の数年間、ジャン達は青の一族の勢力が弱まるよう祈った。今まで彼らの祈りが効かなかったことはなかった。だが、ガンマ団の版図は拡大し続けた。あちらには青の秘石がいる。おそらく、それが彼らの祈りの力をはね返しているのだろう。彼らは、新たな手段を考えざるをえなかった。
 ジャンが青の一族の領土へ乗り込む――それは、大きな賭であった。
 ジャンがいない間、青の一族の者にこの島に乗り込まれたら、おそらくひとたまりもない。ジャンの正体が明らかになってしまったら、ガンマ団に消されないとも限らない。
 この島の存亡をかけた、大きな賭であった。
 その大きな使命を前にジャンは、唇を引き締め、険しい顔をしていた。だが、それは、見る人から見れば、どこか浮かない表情にも見えた。

 月が出ていた。満月というには半分ぐらい欠けていた。
「ジャン」
 脚が何本かの木の根になっている黒髪の男が声をかけた。ソネだった。若く見えるが、すでに数十年は生きている半人半木の男である。人間の女が、メタセコイヤの精と恋に落ちて産まれた子供の子孫だという。
「遅かったな。秘石に怒られでもしたのか?」
 ソネは唇の端に、にやりとからかう様な笑みを浮かべた。
「いや。そんなことはない」
「なんだか、覇気のねぇ顔してるからさ。それともあれか? やっぱり、あのことが気になってるのか?」
「――ああ」
「なんだ。青の一族をやっつけて、ガンマ団とかいう、胸クソ悪い悪の組織をぶっ潰して帰ってくればいいだけだろう? おまえなら簡単さ」
「そんな単純な話じゃないよ」
「おまえ――やっぱり行きたくないのか?」
「ああ、できることならな」
「だらしがねぇなぁ。ほら。しっかりしろよ」
ソネがジャンの背中をバシッと叩く。
「出発は明日だったな。俺達、おまえのために宴を開いてやることにしたんだ。おまえも来い」
ソネはむんずとジャンの腕を掴んで、ぐんぐん引っ張っていく。
 森の開けた場所に出た。
 そこにいたのは、あぐらをかいて座っている山のような大きな体のヨッパライダーと、その横で飛んでいる島の長老、ふくろうのカムイだった。
「長老……ヨッパライダー様」
「おお。ジャン。やっと来たか。まぁ、そこに座れ」
 ヨッパライダーは自分の真向かいの、草の敷き詰めてある地面を指さした。
「では」
 ジャンはそこに腰を下ろした。
「ヨッパライダー様。あなたが現れるのは、桜の花が満開になる頃では…今は蕾すら出ていませんよ」
「わかっておる。おぬしのためじゃ。おまえが明日旅立つと聞いての」
「――ありがとうございます」
 ジャンの表情が柔らかくなった。
「長老も、お忙しい所をわざわざ」
「いやなに。今、隣の島から帰ってきたところでな、その後は何も予定はないからの。あの島の話もしてやろうかの?」
「お願いします」
「まぁ飲め」
 ヨッパライダーは、ジャンに彼用のお猪口を渡すと、大きな徳利から酒を注ぎ、自分の杯にも注いで一気にあおった。
「うまい!」
 そう言って、盛大に息を吐き出す。
「ヨッパライダーさん。こいつを元気づけてやってくれよ。明日は出発だってのに、なんともしけた顔してるんだ」
「なんじゃ? おぬし、そんなにこの島を離れるのが心細いか?」
「そんなんじゃありません」
「いやいや、無理もない。何せ、この島を離れるのは、初めてじゃろうからな」
 カムイが、羽織っている紫色のマントをなびかせ、ジャンのそばに来た。小さな丸い目は、ユーモラスでなんとも温かみがある。
「それも――あるかもしれません。でも、俺は――」
「怖いのか、青の一族が」
ヨッパライダーの問いに、ジャンは首を横に振った。
「怖くはありません。彼らはかつての仲間です」
「仲間っつったって、おーむかしの話だろ。俺のひいじいさんのひいじいさんの、そのまたひいひいひいひいひいひい……えっと……とにかく昔の話なんだ。今は敵だ。わかったな?」
「ソネの言う通りじゃ」
 ヨッパライダーは大きくうなづいた。
「ジャン。おまえもしかして、今更青の一族と戦いたくない、と言うんじゃないだろうな?」
「ああ。戦いたくはない」
「――おまえの気持ちはわかるけどな、敵に情けかけるほどこっちには余裕がねぇんだ。それもわかってるよな」
「ああ。わかっている」
「青の一族は恐ろしい奴らじゃ」
 ヨッパライダーは嘆息した。
「ここの存在があやつらに知れたら、どんな攻撃を仕掛けてくるかわからん。我々は、最後の赤の一族を守らねばならん。――おお、そうじゃ。時にカムイ、あの二人の様子はどうじゃった?」
「アルスとユナか。ああ、とても元気にしておるよ。二人で仲良く、同じ家で暮らしておる。わしが来た時は――そう、ままごとをしとったな」
「それって、将来のための予行練習か?」
 ソネは嬉しそうに言う。カムイはにっこり笑った。
「そうかもしれんの」
「あの二人は、赤の一族最後の男と女じゃ。なんとしても、跡継ぎを産んでもらわねばの」
「跡継ぎなんて――彼らはまだ子供でしょう?」
 ジャンが苦笑まじりに言う。
「じきに大人になる」
 ヨッパライダーはきっぱりと言い放った。
「おぬしが帰って来る頃には、もう子供が産まれていたりしての」
「だいじょうぶだよ。ヨッパライダーのじいさん。ジャンはそんなに時間かけねぇって」
 そう言って、ちらりと横を見る。ジャンは何を思っているのか、空になった手元の杯を見つめている。ソネは、ちょっと自信を失ったように、眉尻を下げる。
「その……本気になればな」
「頑張るんじゃぞ。ジャン。あの二人の行く末は、おまえにかかっているんじゃ」
 ヨッパライダーが、ジャンの肩にぽんと手を置く。
「あーあ。俺もついていってやりたいぜ。おまえがドジしやしねぇかって思うと、不安で不安でしようがねぇ」
「なんだ? ソネ。そんなに俺が頼りなく見えるのか」
「もちろん」
 ソネが即答したので、ジャンはがくっとうなだれた。
「能力はすげぇし、長い間生きてきたっていうのも伊達じゃないってわかるんだけど、でも、なーんか頼りねぇんだよな」
「悪かったな」
「それに……おまえと離れるのは寂しいんだ。俺、この森の番人だからよ、いつも一緒にいたろう?」
「ああ」
 島の動物達がこの森に入ってこないように見張るのは、ソネと、もう一人の森の番人、カイトの役割だった。
「まぁ、俺がいなくなったら、この島を守るやつがいなくなっちゃうからな。我慢するよ」
「カイトがいるだろう」
「ダーメダメ。あんな若造。俺に比べりゃまだまだ」
「それに、おまえの脚では人間ばかりの世界ではちょっと苦しいだろう。これから行くところは、みんな俺みたいな格好の者ばかりだと聞くぜ」
「カイト……そういやカイトはどうしたんじゃ?」
 ヨッパライダーが、今気付いたように、口を挟む。
「カイト。あいつ、冷たいんだぜ。俺がさ、『今日、ジャンの送別会やるから、おまえも来い』って言ったんだ。そしたら、『息子が熱出したから、今日は来れない』だって。あいつジャンと息子とどっちが大切なんだよ。息子はいつでも会えるけど、ジャンはしばらく会えないんだぜ」
「ソネ。息子が風邪をひいたんだ。カイトは心配だろう」
「ほっほっほっ。カイトはどうやら、子煩悩みたいじゃからのぅ」
 カムイが笑う。
 カイトはウォーターフロントの番人で、仕事を忠実にこなす、あまり余計なことを言わない真面目な男だが、先月息子が産まれて以来すっかり子供にかかりきりになっていると言う。息子の名前はイリエと言った。
「子煩悩……あいつがねぇ。人は見かけによらないもんだ。でもまぁ、仕方がねぇや。ジャン。カイトはおまえより息子をとる冷たいやつだから忘れても構わんが、俺達のことは忘れてくれるなよ」
「忘れないよ。絶対」
 決められた者としか関わることのできない番人としての生活。だが、その仲間達が自分との別れを心から惜しんでいる、自分のためにこのような宴を開いてくれる――それがジャンには嬉しかった。
 宴は朝まで続いた。

 そして、出立の朝。
 ジャンの、島での数少ない知り合いの全員が、森の洞窟の前に勢揃いしていた。昨夜来れなかったカイトも――。
「ジャン。昨日は来れなくて悪かった」
「カイト。イリエの熱はひいたのか?」
「ああ。もうすっかり、大丈夫だ」
ソネが、二人の間にひょこっと顔を出す。
「おまえ、今度の送別会の時には、ちゃんと出ろよ」
「二度目など、あるわけないだろう」
「ちっ、相変わらず冗談の通じねぇヤツ」
「ジャン。我々もおぬしに何か贈りたかったんじゃが、どうやらこの島の物は持っていってはいけないみたいじゃから、これで勘弁してくれんかの?」
 そう言って、カムイは手――羽根をジャンに差し伸べた。
「ありがとうございます。長老」
 ジャンはそれを力強く握った。彼は、順々に別れを述べに来た人々に握手した。仲間達の手は、みなそれぞれに暖かく感じられた。
 忘れない。絶対に。どんなことがあっても、彼らがいると思えば、越えていける。くじけそうになった時は、彼らの励ましを思い出そう。俺が彼らのことを思い出すたび、彼らもまた、俺のことを思い出すだろう。
 たとえ距離はどんなに離れていても、心はつながっているのだから――
「じゃあな。ジャン」
「がんばれよ」
「ああ」
 ジャンはみんなに軽く手を振り、洞窟の中に入って行った。

後書き
士官学校の前のお話、言うなれば、『士官学校第0話』です。
わりとよく書けたと思うのですが、どうでしょう?
アルスとユナのお話もそのうち書きたいな。


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