誠実な男 「ねぇ、ギデオン。大人になったら結婚しましょ」 ギデオンは深い闇色の瞳をあたしの方に向けた。私はかなりドキドキしながら答えを待った。 やがて、ギデオンは、静かに口を開いた。 「今ははっきりと約束はできない。そのときになったら考えてみよう」 その返答にあたしは彼の誠実さを感じて満足を覚えた。 あたしは、窓辺に寄って、雫の落ちるさまを見ていた。 雨は嫌い。あたしの性に合わないから。 でも、ここは雨が多いところだ。 全くイヤになってしまう。こっちまでじめじめしてくるようで。 「リサちゃん」 ミリィの甘ったるい声が聞こえた。ミリィはあたしの同僚――つまり、娼婦仲間だ。 ミリィは女から疎まれるタイプのようで、仲間うちでは何となくはぶかれたり浮き上がったりしている。はっきり嫌がらせをされることもあるらしい。確かに、どちらかというと男好きのするタイプではある。 あたしは結構、あたしより二つ下のこの子と仲が良い。それは、あたしの性格が男っぽいからだろうか。 ちょっと無神経で、知らずに人を傷つけることはあるけど、悪い子じゃない。 ミリィはちょっと垂れ目がちの大きな目をしている、ファニーフェイスの女の子だ。茶色の瞳は近眼で、いつもうるんでいる。艶やかなブロンドの髪だが、眉と瞳の色は濃いから、染めているのだろう。小柄なくせに胸はある。トランジスタ・グラマーっての? 幼い顔立ちなのに、化粧が濃いのが妙に色っぽい。今日のアイシャドーは水色だ。 ミリィが笑った。 「リサちゃん、退屈そうね」 「退屈だわよ」 今日はお客も少ない。あたしとミリィがお茶を挽くことなどめったにない。あたし達は、この店では一番若い方だし、みばだって良い。 あたしはウェーブがかった、セミロングの赤い髪で、ルビー・レッドの瞳をしていて、背は高い。プロポーションにも自信がある。 正直いうと、器量という点では、ミリィは一格落ちるかもしれないが、その代わり彼女には、男にしなだれかかるような色っぽさがある。 「俺がいないとコイツはダメになるのではないか」――そう思わせるところが、男を参らせるのだ。 だから――だからミリィが女に嫌われるのもすごくよくわかるのだ。 「ギデオンさん、しばらく来ないね」 ミリィは、あたしも気にしていることをずばりと訊く。 あたしは答える代わりに眉を寄せた。 これが他の女だったら、とっくにつかみかかっているところだ。だけど、ミリィのように無邪気に言われたら、それもできかねた。 「ギデオンさんはリサちゃんのものだからともかく、私はあの金髪のお兄さんに来てほしいな」 「正気? あたし、アイツ嫌い」 「ハーレムさんて言ってたわよね」 「ふざけた名前だわよ」 「カッコイイじゃない」 「ふん」 あたしは一度見たら忘れないだろう、と思うハーレムの姿を思い浮かべた。 金髪碧眼。好みじゃないけど、造作はわるくなかった。長い髪はライオンのたてがみのように流していた。近くで見ると、色の深さの違う瞳。ギデオンより少し背が足りないものの、かなり大柄だったのを覚えている。 あたしが嫌いなのは、馬鹿な男と粗野な男と下品な男だ。ハーレムはそのどれにも当てはまりそうでいながら、そのどれとも微妙に違う気がした。 「リサちゃん、ああいう人嫌い?」 「そうね」 本当はアイツを嫌いな理由は、もっと別のところにあるのかもしれないけど、それはミリィにも言うことはできない。 「あれ?」 ミリィが言った。耳を澄ませているようだ。 「――リサちゃん。車の音」 「そう。誰か来たのね」 ビンゴだった。 やがて、ママが呼びに来た。 「リサちゃん。お客様」 あたしは何となくぴんと来て、野兎のように階段を駆け下りた。ミリィが後からついてくる。 扉を開ける。何ヶ月も会わなかった愛しい人の姿がそこにあった。 「ギデオン!」 あたしはすぐさま走って行って飛びついた。 彼の匂いが鼻をくすぐった。 深い闇色の瞳。濃い眉。長めのもみあげ。ひげでざらざらするあご。 懐かしいギデオンの、男らしい顔が目の前にある。 「ギデオン! ギデオン! 良かった!」 もう来てくれないかと思った。 ギデオンのいない間に大きくなっていた不安が、いっぺんに溶け去るようだった。 ――でも、彼は一人じゃない。 心の中から別の声が聞こえた。 そんなことはもう、わかりきっていたことのような気がする。あたしは最初から感じていたのだ。にやにやとあたしとギデオンを見つめているもう一対の目を。 あたしはそいつの方を振り向いた。そいつは相変わらず、ライオンを思わす外見をしていた。 「よぉ。お安くないな。G」 そいつは軽く手をあげた。 「あら、どちら様?」 あたしは冷ややかにいなしてやった。 「――驚くべき態度の変わりようだな。おまえ、わざとだろ」 「ああ、思い出したわ。あなたはハーレム・ヤンキー・チンピラ・ライオンモドキね」 「勝手に人の名前を作るな」 「ここは人間の来るところよ。アンタは動物園に行ってメスライオンとでも番ってなさい」 「――なんだと? ここの女は客への対応がなっていないようだな」 「じゃあ、私がハーレムさんのメスライオンになるー」 舌っ足らずの声がした。ミリィだ。 「ミリィ、アンタこんなヤツの相手する気?」 あたしの言葉にも関わらず、ミリィはハーレムの隣に座り、ねだるようにあいつの肩に頭を乗せる。 「ねぇ、いいでしょう? ミリィ、ハーレムさんのためならなんでもしちゃう」 ハーレムはふっと笑った。 「悪いが、俺はもっとアダルトな女の方が好みなんだ」 「ミリィ、大人だよぉ」 「ばっか。おまえはガキだ」 「違うもん。ハーレムさんなんてキライ。私、あっちに行ってる」 ミリィは幼い足取りで向こうの男客達の方に行こうとする。ハーレムはそれを見送った後、あたしに向かって言った。 「おい。ミリィっていくつだ?」 「二十歳よ」 「――あれでか」 「そうよ」 「俺と同い年じゃねぇか」 「そうなの。あんた老けてるからわからなかったわ」 あたしのイヤミには構わず、ハーレムは続けた。 「――まだガキじゃねぇか」 「そう思う?」 「ああ」 あたしはちょっと驚いてハーレムを見た。 客の中で、ミリィをはっきりガキだと言う男は少ない。その幼さすら、性の対象として眺めるのが常なのだ。こういうところに来る男は。まぁ、そういう目的で来てるんだから、当たり前だけど。 あたしの仲間だって、「あんな見た目して、すれっからしなのよ」なんて言ってるけど、私はそうは思わない。あの子はやっぱりガキなんだと思う。 幼さも手管のひとつ、という見方もあるんだろうけど、あたしは、あの子がガキにしか見えないのは、それなりのわけがあるんだと思う。 別に、見た目どおりとかいうんじゃなくて、なんていうか、あの子、多分男どもがそう思いたがっているほど純真でも素直でもないんだろうけど。 「でもあいつ、なかなかのしたたか者だな」 「そう思う?」 「ああ」 「そりゃ、私だってそう思うことはあるけど」 「ハーレムさん、何お話してたの?」 ミリィがいつの間にか戻ってきていた。 「ん。おまえがガキだって話してたんだよ」 「だからぁ、ミリィ、ガキじゃなあいもーん。今から教えてあげたっていいよ」 「ガキじゃないっつうんなら、もっとしっかりするんだな」 ハーレムはミリィを抱きつかせたままにしている。 「おまえ、向こうに行ってたんじゃなかったのか?」 「あの人たち、イヤらしそうだから帰ってきたの」 あたしは、視線をギデオンの方に移した。 彼は辛そうに眉をひそめていた。そして――また、あの目。 あたしは心臓をぎゅっとつかまれたような気持ちだった。 あんな食いつかんばかりの目。 お願いよ。ギデオン。あたしを見て――。 あたしはもう、十何年もあんたしか見てこなかったんだから。 二人は相変わらずじゃれている。 あたしは、ギデオンを引っ張った。彼が、はっとこっちを見る。 「行きましょ。ギデオン」 「ああ」 ギデオンは立ち上がった。あたしは腕を絡ませ、個室に彼を誘う。 雨が屋根を打つ音が聴こえている。 イヤだな。空が泣いてるみたい。 そう思ってから気がついた。あの天気は、今のあたしの心そのままだということを。 隣にギデオンの頭がある。彼は何も言わずにこちらを見ていた。 「――ギデオン」 あたしは小声で囁いた。 「結婚しましょ。あたし達、大人になったわ」 今、そう言ったら、ギデオンは何と答えるだろう。 ――あのときの誠実な男は、今でも誠実な答えをしてくれるだろうか。 それが、恐ろしい。彼が誠実であればその誠実さに、誠実でなければその誠実でなさに傷つく。 ギデオンを困らせたくない。それ以上に、自分が傷つくのが怖い。 「どうした?」 ギデオンの問いに、 「なんでもないわ」 と答え、あたしは瞼を閉じた。 |